日本
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軍事面では21世紀に入って急速に結びつきが強まっており、イラク戦争時にはサマーワ自衛隊イギリス軍が駐留して協力する[563]F35戦闘機搭載のミサイル技術をめぐる日英共同研究を行う[564]自衛隊イギリス軍との提携を取り決めた日英物品役務相互提供協定、自衛隊とイギリス軍が共同訓練などで相手国を訪問した際の出入国時の査証申請要件免除や活動時の武器弾薬の所持許可などを盛り込んだ日英円滑化協定新日英同盟)を締結するなどしている[565]。また、皇室イギリス王室の交流をはじめ[566]、文化面でも深い関係を築いている。

イタリア日伊関係は、日本が開国し、リソルジメントによりイタリア王国が成立した事によって、1866年に日伊修好条約が締結された事に始まる。なお、それ以前の15世紀末には中国を訪れていたジェノヴァ共和国の商人マルコ・ポーロが、著書『東方見聞録』の中で日本だと比定されるジパングという国を紹介しているほか[567]、戦国時代にはイタリア人宣教師が日本を訪れているなど[568]、間接的な接点は持っていた。国交樹立後は、日本の主力輸出品の一つであった蚕紙の4分の3がイタリアに売却されるなど、経済的な結び付きを強めていった[569]。また、日本の明治維新とイタリアの統一はほぼ同時期に果たされたために明治政府イタリア王国政府に相応の興味を持ち、イタリアから複数の専門家や技術者を雇用している(お雇い外国人)。中でも、画家のエドアルド・キヨッソーネ紙幣発行や切手の普及に努め[570]、法学者アレッサンドロ・パテルノストロは法律顧問として井上毅とともに条約改正に尽力[571]、画家のアントニオ・フォンタネージは日本で洋画を本格的に指導し彼の教え子であった浅井忠五姓田義松小山正太郎松岡寿山本芳翠などは明治期を代表する画家に成長した[572]。このように、イタリアの影響は社会制度や文化の面で色濃く残されている。二度の世界大戦では通して同じ陣営に立って戦っており、特に第二次世界大戦日独伊三国同盟を結んでいたため、ドイツに次ぐ日本の重要なパートナーであった[573]

敗戦後は、両国ともに経済大国として復興を果たしており、経済面では友好的な交流を図ると同時に競争相手でもある。それは自動車産業で特に顕著であり、フィアットフェラーリは世界シェアを争うライバルである[574][575]。そのほかにも、様々なイタリア企業が日本に進出すると同時に、日本企業がイタリアに進出している[576]。外交面では、ともに西側陣営G7の一員としてある程度利害が一致しており、緊密な交流を続けている[577]。しかし、日本はG4諸国として常任理事国参入を目指す一方で、イタリアは常任理事国拡大を阻止するコンセンサス連合の主導国でもある[578]

 オーストリア日墺関係は、まだオーストリア列強の一国であったオーストリア=ハンガリー帝国時代、不平等条約の集大成といわれた日墺修好通商航海条約を結んだ事により樹立された[579]。1873年のウィーン万博には日本も参加し、これは欧州における「ジャポニズム」流行の契機の一つとなった[580]。また、当時オーストリア=ハンガリー帝国は列強だったため多数の技術者や知識層がお雇い外国人として来日し、ローレンツ・フォン・シュタイン伊藤博文にドイツ形式の立憲体制を薦めて大日本帝国憲法に影響を及ぼし[581]アルブレヒト・フォン・ローレツはドイツ医学の普及に努めて後藤新平に影響を与えたほか[582]レルヒ少佐は日本にスキー技術をもたらすなど[583]、政治や文化の面で英米独仏露伊に次いで日本に強い影響を及ぼしている[584]。その後、義和団事件では同じ側に立って戦い、続く第一次世界大戦では対立するものの、オーストリア共和国となった現在ではウィーン少年合唱団との協力や学生のオーストリアへの留学など、音楽や文化を中心に交流が進んでいる[585]

オランダ日蘭関係は、17世紀初頭に豊後国臼杵にヤン・ヨーステンの乗るオランダ商船リーフデ号が漂着した事に始まる。江戸時代から幕末に至るまで、オランダはキリスト教が浸透するヨーロッパ諸国で唯一、鎖国体制下であっても長崎貿易を通じて日本と通商関係を維持し続けた[586]。オランダ人は紅毛人と呼ばれ、彼らが世界情勢について記したオランダ風説書は江戸幕府の対外政策にも影響を及ぼし、また彼らがもたらした文化や科学技術、研究はオランダ語を通じて吸収され、蘭学の形成を促し知識層を刺激するなど、日本の歴史に大きな影響を与えている[587]。1858年には日蘭修好通商条約が結ばれて正式に国交が樹立、しかし不平等条約であったために1912年には改めて日蘭通商航海条約が結ばれた[588]。第二次世界大戦中は東南アジアの権益をめぐって対立したが[589]、戦後は国交が回復し、2000年には日蘭交流400周年を迎えるなど、良好な関係を保っている[550]

スイス日本とスイスの関係は、1864年に日本瑞西国修好通商条約が締結された事により始まった[590][591]。その後、第一次世界大戦第二次世界大戦を通して、永世中立国であったスイスは中立を維持したため断絶する事がなく国交が続いている稀有な国家である[592]。現在では日本は経済大国、スイスは金融立国としてそれぞれ経済や金融における結び付きがあり、日本にはネスレノバルティスが進出している[592][593][594]

 スウェーデン日本とスウェーデンの関係江戸時代に遡り、学術的な結び付きが存在する。1649年にはユリアン・スヘーデルが来日して進んで砲術や三角測量を伝え[595]、1775年には出島の三学者として知られる医師カール・ツンベルク箱根などで植物採集を行い、帰国後は『日本植物誌』を発刊して日本における植物学蘭学、ヨーロッパにおける東洋学の発展に貢献した[596][597]。正式な国交が樹立されたのは1868年であり、その時結ばれた「大日本国瑞典国条約」は明治政府が最初に外国と結んだ条約である[598]。現代では、スウェーデンの少子高齢化対策や福祉政策が日本で注目される一方、スウェーデンにとって日本はアジア第二位の重要な貿易相手国となっている[599]。また、皇室スウェーデン王室の交流も緊密である[600]

スペイン日西関係は、戦国時代にあたる16世紀から始まっており、ポルトガルと並んで日本が最初に接触したヨーロッパ諸国であった[601]。当初はキリシタンフランシスコ・ザビエルなど)や南蛮貿易を通じての関係で、日本の文化や世界観にも影響を与えて南蛮文化を生み出した[602]。しかし、江戸幕府により禁教令が敷かれると交流は一時的に途絶する。開国後、1868年には日西修好通商航海条約が結ばれ、交流が回復した[603]第二次世界大戦の際にはスペインは枢軸寄りの姿勢を見せたものの、中立を守り1945年には一時的だが国交も途絶えている[604]。戦後は国交回復し、皇室とスペイン王室に緊密な交流があるほか、文化面でも交流が続いている。

 デンマーク日本とデンマークの関係は、デンマーク東インド会社が設立された17世紀に端を発するが、非公式な接触であった[605]。正式に国交が樹立されたのは1867年の日丁修好通商航海条約以降であり、これは江戸幕府が最後に外国と結んだ条約であった[606]。その後、1911年(明治44年)には内村鑑三が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演しエンリコ・ダルガスの植林事業を優れた施策として紹介したほか[607]1912年には農学者であった東郷実がデンマークの農業改革を高く評価し『丁抹農業論』を著す[608]、北海道庁にデンマーク式酪農が伝わる、1936年にはデンマークの教育機関フォルケホイスコーレを参考にして松前重義が後に東海大学となる私塾を開設するなど[609]、農業・教育分野で日本に影響を与えた。現在でも友好的な関係が続いており、経済面ではレゴなどの企業が日本進出しているほか[610]皇室デンマーク王室の交流は緊密である[611][612]

ドイツ日独関係は、まだドイツがプロイセン王国だった時代に非公式に始まった。江戸時代当時の日本は鎖国体制が築かれていたが、出島の三学者として知られるシーボルトや『日本誌』を著したエンゲルベルト・ケンペルなどが長崎に滞在して、医学薬学生物学地理学歴史学民俗学博物学など、両国の様々な学問の発展に貢献している[613][614]。1858年には日米修好通商条約が結ばれて江戸幕府が開国に向けて施策を転換すると、プロイセン政府も国交樹立に動き、1861年に不平等条約ではあったが日普修好通商条約を成立、正式な国交が結ばれた[615]。1870年にドイツ帝国成立後も国交は維持され、19世紀後半に日本が近代化を進めるにあたって、イギリスおよびアメリカ合衆国との関係に次いで重要な役割を果たした。


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