日本
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EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した[178]。「領空」および「防空識別圏#日本国の防空識別圏」も参照
国土の変遷

古代古代日本国家の北限、阿武隈川

弥生時代後期、西日本の各地に広域の地域勢力が勃興した[179]。2世紀末には畿内を中心として、西日本広域を支配する邪馬台国連合が創設された。邪馬台国連合は3世紀には東海・北陸のほか東日本も支配下に置き倭国が成立した[180]古墳時代前期前半には、現在の九州の宮崎県から東北宮城県の範囲まで国土が拡大されたことが、古墳造営の消長から明らかになっている[181][注釈 42]。荒井秀規は、3世紀末から4世紀に倭王権による東国への最初の接触があった後、4世紀末から5世紀にかけて倭王権による東国への征服戦争が行われたと想定している [182]。ただし倭国は東北など各支配領域を確保・維持しようとする考えを持っておらず[183]、6世紀には、経済基盤が脆弱な阿武隈川以北を倭国の支配地から切り離し[184]古墳時代後期には太平洋側では現在の宮城県南部、日本海側では現在の新潟県中部までが倭国の支配領域となった[185]。またこの間、400年(履中天皇元年)と404年(履中天皇5年)に倭は朝鮮半島で百済・加耶諸国と共に高句麗・百済連合軍と2度にわたって合戦を行っている[186]

奈良平安時代の日本国は、北は津軽海峡まで、南は喜界島までを国土と認識していたが[187]、一方で九州四国壱岐島対馬とそれらに取り囲まれた本州北陸中部地方西部までの範囲こそが日本国本来の領土とも認識していた[188]。そのため東北地方に対しての関心の希薄さは変わることがなく、東北地方北部を完全な形で支配する必要性は感じておらず[189]、実際には大崎平野までが8世紀における日本国の北限であった[190]。9世紀、陸奥・出羽からの徴税の京進が行われなくなると[191]関心は更に希薄になり、東北北部の経営は現地の官人任せになっていった[192]。また、南西諸島への関心も薄れていった[193]

古代の日本では、畿内と言われる行政区が設けられていた。大化の改新によって設置された当時から畿内は支配者にとっての特別な地域と認識されていたが[194]、律令制施行後は直轄地として国家を支える役割を担った[195]

中世15世紀前半、帰属を巡って日本と朝鮮の間で揺れた対馬島

中世後期の日本は、室町将軍との間に<主-従の関係>を築くことが出来ているか、室町将軍を頂点とした階層的な秩序の内に居るか、あるいは外に居るかで境界が引かれていた[196]。将軍に反逆し命令の届かない地域は支配権の外に置かれ、<主‐従の関係>の有無によって境界が明瞭化された[197]

歴史学において室町幕府3代将軍・足利義満の治世は初の公武統一政権と評価されている[198]。しかし室町幕府は地方への関心を殆ど持たない政治権力であり[199]、自らが統治すべき範囲は畿内近国・瀬戸内・中部地域と考えており、幕府にとって東北・関東・九州は辺境でしかなかった[200]

15世紀前半、永享の乱によって将軍と鎌倉公方との<主ー従の関係>が崩れると、幕府は日本国の東側の境界は駿河国までであると規定するようになり、東国を日本国から切り離した[201][202][203]。一方で当時は独立国だった琉球国は室町将軍との間に<主‐従の関係>を結んでおり、将軍による<主‐従の関係>は国家間においても成立しうる概念でもあった[204]

1419年(応永26年)、李氏朝鮮倭寇の拠点壊滅を目的に対馬を攻撃したが作戦は失敗に終わった(応永の外寇)。その後、対馬を李氏朝鮮領とするため対馬-李氏朝鮮間で交渉が行われたが、交渉は不調に終わり対馬は引き続き日本国に所属することになった[205]

文明年間、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」で、中世後期の日本国の範囲は現在の近畿・東海・北陸・中国・四国の各地域であるとしている[206]。一方、戦国時代末期の天正9年(1581年)、織田信長は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)が合戦し西国を討ち果たせば本朝(日本国)は滞りない状態になるだろう、と日本国の範囲を規定している[207]

近世豊臣秀吉の時代、日本国の支配は初めて本州の北端に到達した

織田政権を継承した豊臣政権は、四国平定九州平定を経て1588年(天正16年)日本国の統一を成し遂げた[208]。豊臣政権はその後東日本にも支配を拡大し[209]、1590年(天正18年)の奥羽仕置により初めて本州北端までを日本の国土に組み込んだ[210]。更に秀吉は「唐入り」と称して朝鮮半島に2度に亘って攻め込むが、中国大陸・朝鮮半島へ支配を拡げるには至らなかった(文禄・慶長の役)。

豊臣政権を継承した徳川幕府は、豊臣政権とは一転して国際的孤立主義の道を選び[211]、長崎・対馬・琉球(薩摩)・松前の4地域を窓口として対外交渉を行った[212]

1609年(慶長14年)、薩摩藩が琉球に侵攻し冊封関係を築き支配下に置いたが、琉球は中国とも朝貢関係を持ち続け、日本国と中国()との間で両属的な関係を維持した[213]。また、徳川政権期、蝦夷地(北海道)は松前藩が支配する渡島半島の南部の「和人地」以外は日本国の外と認識していた[214]

近代以降詳細は「大日本帝国#領土」を参照

辺境地域の領土確定を課題としていた明治新政府は1870年(明治3年)、北海道を日本国に組み込み、1879年(明治12年)にはとの帰属交渉が未決のまま、琉球を沖縄県として公式に日本国に編入した[215]

19世紀末以降、日本国は対外戦争により国土を拡げていき、20世紀前半には日本史史上最大規模に拡大した。1895年(明治28年)に日清戦争の結果、清から台湾を獲得(下関条約)し[216]、1905年(明治38年)には、日露戦争後の交渉で、ロシアより南樺太の割譲を受けた[217]ポーツマス条約)。更に1910年(明治43年)にはそれ以前より日本国の保護下にあった朝鮮を併合した[218]。その後、1922年(大正11年)には南洋諸島の委任統治も開始し[219]、太平洋側へも支配地域を拡大させた。

1932年(昭和7年)には満州国を建国し[220]。1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに開戦した日中戦争により中国大陸に占領地を拡大。1940年(昭和15年)9月、フランス領インドシナ北部へ進駐を開始し(仏印進駐[221]、翌年7月には南部仏印進駐、翌年7月には南部にも進駐を開始した[221]

1939年(昭和14年)2月、台湾総督府は海軍と共に海南島を占領した[222]。台湾総督府は台湾の重工業化を企図し、「台湾の植民地」として海南島を支配下に置くことを目論んだものだった[223]


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