日本
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この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった[注釈 39]。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。

紀元前8世紀ごろ以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀ごろに青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀2世紀前後に倭の代表の座を巡って各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。王権の首長)はのちに大王(おおきみ)と呼ばれ、豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。
律令国家の成立と貴族政治の展開漢委奴国王印

朝鮮半島における覇権争いが倭国の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に日本領を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「天皇」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。また『隋書』では、日本列島での古墳時代後期にあたる610年が「流求国」に遠征して滅亡させたとされており、従来の研究ではこれが琉球諸島に存在していたことが定説となっていたが、その位置を巡っては意見が分かれている[142][143]

日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした。後述する武家政権成立後も、13世紀元寇16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持していくこととなる。

成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8、9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に、関係が悪化した新羅への遠征も計画される[144]など、帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。

9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏清和源氏は、軍事貴族である武家となって武士を二分する勢力に成長し、政権を巡って両者は相争った。

中央政治においては11世紀藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が早くに譲位し、太上天皇(上皇)となって政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。

文化面においては、7世紀から9世紀にかけて唐を中心とする大陸文化の摂取に努めたが、10世紀ごろから12世紀にかけては日本独特の文化が創造されるようになり、国風文化が花開いた[3]
武家政権の時代当世具足を身に着けた
手彩色写真。元の写真はフェリーチェ・ベアトによる1860年代の撮影。

10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制へと移行した。更に治承・寿永の乱平氏政権を破った清和源氏北条氏が実権を掌握する鎌倉幕府が王朝貴族勢力と拮抗しながら国内の統治を行い、「一所懸命」「御恩と奉公」の言葉に象徴される封建的なシステムが確立した(荘園公領制職の体系[3]

12世紀ごろ(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」「日本国」の表記が見られ始め「日本」「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。また、このころに今日につながる日本の仏教の諸宗派が発達した[3]
元寇

13世紀後半の日本侵攻は、「日本」「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[145]

日本は元の侵攻を退けたが領地の獲得はなく、御家人に恩賞を与えることが出来なかった為御恩と奉公は崩れた。そのため元寇は鎌倉幕府滅亡につながった[146]

1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は古代の天皇親政に回帰する建武の新政を行ったが、ほどなく失敗し、1336年に成立した足利氏室町幕府がその後の南北朝時代の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。

この室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。また、15世紀には足利義満による日明貿易が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の明朝から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。
戦国時代・近世の到来三英傑

14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展し、守護領国制が形成されたが、応仁の乱による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半ごろから戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ[3]。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に織田信長の遺志を引き継ぎ日本の統一政権を樹立した豊臣秀吉太閤検地を実施し近世封建社会の基礎を確立した[147]。戦国大名の最後の覇者となった徳川家康1603年江戸幕府を開き、約260年間にわたる「天下泰平の世」が続いた[3]幕藩体制の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した国学は日本の伝統宗教である神道を思想的に発展させ、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。

日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀シャクシャインの戦いロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。


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