遣唐使はその後もしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号としたのかは明らかでない[120]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」という国号の多くを「日本」と改めている[注釈 24]。対照的に『古事記』には「日本」という文字は全く現れない。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』『新唐書』の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[121]。なお『万葉集』の歌謡では692年、持統天皇が伊勢国の神郡[注釈 25]に行幸したときに随行した石上麻呂の歌(44番)が「日本」の初出であり、この「日本」は大和国(現在の奈良県[注釈 26])の意味で使われている[注釈 27]。 『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と記し、饒速日命(にぎはやひ)は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。 唐の張守節
詳細
『三国史記』の新羅本紀では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされているが、井上秀雄と吉田孝は、これは上記の『新唐書』を誤って引用したものとする。新羅本紀には「698年、日本国から使者が来た」という記事もあるが、『続日本紀』にはこれに対応する記事は無い。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[85]。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。このころの東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、天智天皇の時代(670年)説を除いた見解は以下の2説に絞られる。
天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説[124]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[125][注釈 29]。
701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[126]。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[127]。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[128]。