日本
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その他、各言語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(: an tSeapain)、ヤーパン(: Japan)、ジャポン(: Japon)、ヤパン(: Japan)、ハポン(西: Japon)、ジャッポーネ(: Giappone)、ヤポニヤ(: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注釈 19]: Япо?ния)、ヤポーニヤ(: Япо?н?я)、イープン(: ???????)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。漢字文化圏においては、リーベン(: Rib?n;日本)[注釈 20]、イルボン(: ??;日本)、ニャッバーン(: Nh?t B?n;日本)[注釈 21]など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。9世紀半ば以降の中世アラブ世界では、東方の彼方に存在する黄金に富む土地をワクワク: ????? ???‎)と呼んでいた。この呼称の由来として、当時の中国における呼称である「倭国」がアラブ世界に伝わって訛った結果との説がある。また、東方の黄金に富む土地という意味についてもジパング伝説と一致する。
欧州発行の古地図上での表記


「CIPANGU」1300年ごろ[89]

「IAPAM」1560年ごろ[90]

「ZIPANGNI」1561年[91]

「IAPAN」1567年ごろ[92]

「IAPAM」1568年ごろ[93]

「JAPAN」発行年不明[94]

「IAPONICUM」1585年[95]

「IAPONIAE」1595年[96]

「IAPONIA」1595年[97]

「IAPONIA」1595年[98]

「IAPONIA」1598年[99]

「IAPONIA」1598年[100]

「IAPAO」1628年[101]

「Iapan」1632年[102]

「IAPONIA」1655年[103]

「IAPON」発行年不明[104]

「Iapan」1657年[105]

「IAPONIA」1660年ごろ[106]

「NIPHON」1694年ごろ[107][注釈 22]

「JAPAM」1628年[108]

「YAPAN」1628年[109]

「IAPON」17世紀[110]

「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[111]

「IMPERIUM IAPONICUM」1710年ごろ[112]

「IAPONIA」18世紀初[113]

「IAPON」1720-30年[114]

「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[115]

「HET KONINKRYK JAPAN」1730年ごろ[116]

「JAPANIA REGNVM」1739年[117]

国号の由来
概説

日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国朝鮮は日本を「」と呼んできた。石上神宮七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗広開土王碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[118]

しかし、中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、初回は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」(『隋書』)、これにが「皇帝、倭皇に問う」(『日本書紀』)と応じ、第2回は「東の天皇が西の皇帝に白す」(『日本書紀』)とする国書を日本側の遣隋使が渡した記述があり、初回の遣唐使を送ってきた使と礼を争った時も『日本書紀』では「天子の命のたまへる使、天皇の朝に到れりと聞きて迎えしむ」と日本側が発言している。いずれも「天子」「天皇」は記すが国名は記していない。当時編纂されたとされ、現存しない歴史書『天皇記』『国記』も君主号のみがあり国号は無い[注釈 23]


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