日本
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日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の「JAPAN」としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピック選手団のみ「NIPPON」の表記を使っていた[87]2021年の自国開催の2020年東京オリンピックでは入場行進時に「にほん」とアナウンスされている。

東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京の日本橋は「にほんばし(Nihon-bashi)」、大阪の日本橋は「にっぽんばし(Nippon-bashi)」と読む。

明仁上皇は一貫して「にほん」と読んでいる[84]
呼称

古くから多様である。
和語


あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。
孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。

「秋津島」

「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)

「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)


あしはらのなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。

葦原の中つ国[88]」(あしはらのなかつくに、葦原中国)(『古事記』、『日本書紀』神代)

「豊葦原(とよあしはら)」

「豊葦原瑞穂国」

「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)

「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)


うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。

「浦安国」(日本書紀・神武紀)


おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。

「大八島」「太八島」

「大八洲」(『養老令』)

「大八洲国」(『日本書紀』神代)


くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。

「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)


しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。

「師木島」(『古事記』)

「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)

「敷島」


たまかきうちのくに

「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)

「玉垣内国」(『神皇正統記』)


ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの。

「日出処」(隋書)


ひのもと - 雅語で読むこともある[注釈 16]

ほつまのくに

「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)


みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。

瑞穂国」


やまと - 大和国奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』では「倭」、『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝などの中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする[89]が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。神日本磐余?天皇(かむ やまと いわれびこ)、稚日本根子彦(わか やまと ねこひこ)など。また、隼人(はやと)などの呼称からすれば、元は山地の人を「山人」(やまと)といったことも考えられる。

「虚空見つ日本の国」(そらみつやまとのくに)


漢語
「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬?伝説に準えた「扶桑」[90]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[91]。このほかにも「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[注釈 17]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後empireの訳語として使われている。大日本帝国憲法の後「大日本帝国」の他「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[注釈 18]
倭漢通用
江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[92]に倭漢通用の国称が掲載されている。

「倭国」

「和面国」

「和人国」

「野馬台国」、「耶摩堆」

氏国」、「女王国」

「扶桑国」

「君子国」

「日本国」 - 垂仁天皇2年、任那のツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)は、ある村に祀られていた白い石の変化である童女を得たが、その後に逃げた童女を追って「日本国」に入り、その童女が難波(なんば)と豊国々前郡(とよくにの みちのくちの くに)の比賣語曾社(ひめごその やしろ)の祭神となっているのを見つけたとされている(日本書紀)。

その他の言語「外名#日本の外名」および「en:Names of Japan」も参照マルティン・ベハイム1492年に想像した欧州大陸西側の詳細。アメリカ大陸の存在が認識されておらず太平洋と大西洋が一つの大海として表現されている。中央上部左にCipanguとある。中世アラブ世界のムハンマド・アル=イドリースィー1154年に作成した地図には、左上の山のような絵に????? ???という地名が記載されている。この地図は当時最先端の世界地図の1つであった。英語での公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、ISO 3166-1などで使われるJPN、JPが多く用いられる。JAP(ジャップ)は英語圏を中心に侮蔑的な意味があるが、一部の国[注釈 19]IOCコードでは中立的な立場でJAPが用いられる。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPUなどによるローマ字表記(1965年以降)、郵便切手日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。その他、各言語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(: an tSeapain)、ヤーパン(: Japan)、ジャポン(: Japon)、ヤパン(: Japan)、ハポン(西: Japon)、ジャッポーネ(: Giappone)、ヤポニヤ(: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注釈 20]: Япо?ния)、ヤポーニヤ(: Япо?н?я)、イープン(: ???????)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。漢字文化圏においては、リーベン(: Rib?n;日本)[注釈 21]、イルボン(: ??;日本)、ニャッバーン(: Nh?t B?n;日本)[注釈 22]など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。9世紀半ば以降の中世アラブ世界では、東方の彼方に存在する黄金に富む土地をワクワク: ????? ???‎)と呼んでいた。この呼称の由来として、当時の中国における呼称である「倭国」がアラブ世界に伝わって訛った結果との説がある。また、東方の黄金に富む土地という意味についてもジパング伝説と一致する。
欧州発行の古地図上での表記


「CIPANGU」1300年ごろ[93]

「IAPAM」1560年ごろ[94]

「ZIPANGNI」1561年[95]

「IAPAN」1567年ごろ[96]

「IAPAM」1568年ごろ[97]

「JAPAN」発行年不明[98]

「IAPONICUM」1585年[99]

「IAPONIAE」1595年[100]

「IAPONIA」1595年[101]

「IAPONIA」1595年[102]

「IAPONIA」1598年[103]

「IAPONIA」1598年[104]

「IAPAO」1628年[105]

「Iapan」1632年[106]

「IAPONIA」1655年[107]

「IAPON」発行年不明[108]

「Iapan」1657年[109]

「IAPONIA」1660年ごろ[110]

「NIPHON」1694年ごろ[111][注釈 23]

「JAPAM」1628年[112]

「YAPAN」1628年[113]

「IAPON」17世紀[114]

「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[115]

「IMPERIUM IAPONICUM」1710年ごろ[116]

「IAPONIA」18世紀初[117]

「IAPON」1720-30年[118]

「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[119]

「HET KONINKRYK JAPAN」1730年ごろ[120]

「JAPANIA REGNVM」1739年[121]

国号の由来
概説

日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国朝鮮は日本を「」と呼んできた。石上神宮七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗広開土王碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[122]

しかし、中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、初回は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」(『隋書』)、これにが「皇帝、倭皇に問う」(『日本書紀』)と応じ、第2回は「東の天皇が西の皇帝に白す」(『日本書紀』)とする国書を日本側の遣隋使が渡した記述があり、初回の遣唐使を送ってきた使と礼を争った時も『日本書紀』では「天子の命のたまへる使、天皇の朝に到れりと聞きて迎えしむ」と日本側が発言している。いずれも「天子」「天皇」は記すが国名は記していない。当時編纂されたとされ、現存しない歴史書『天皇記』『国記』も君主号のみがあり国号は無い[注釈 24]。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、倭国伝と日本伝を別に立て「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭と日本の関係について説明している[123]。『新唐書』東夷伝も似た記事を載せるが、日本伝のみを立て、倭国が日本国を併合して国号を奪ったとする異伝を記す点が大きく相違する。

遣唐使はその後もしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号としたのかは明らかでない[124]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」という国号の多くを「日本」と改めている[注釈 25]。対照的に『古事記』には「日本」という文字は全く現れない。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』『新唐書』の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[125]。なお『万葉集』の歌謡では692年持統天皇伊勢国神郡[注釈 26]に行幸したときに随行した石上麻呂の歌(44番)が「日本」の初出であり、この「日本」は大和国(現在の奈良県[注釈 27])の意味で使われている[注釈 28]
詳細

『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と記し、饒速日命(にぎはやひ)は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。


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