1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘は殆どなかったにもかかわらず大隈内閣は日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、日本では大戦景気で成金などが出現するなど大きく経済を発展させた。
第一次世界大戦中の1917年(大正6年)にはロシア革命が勃発し、ロマノフ王朝が打倒され、ソビエト連邦が誕生した。寺内内閣はソビエト政権を転覆する為にシベリア出兵を行ったが(→反革命戦争)、折から国内では米価が暴騰し、富山県から1918年米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが寺内正毅首相は退陣し、代わって初めて爵位がない立憲政友会(政友会)の原敬が首相となった(原内閣)。政友会でも、西園寺公望が薩摩藩と結び付きが強かったのに対し、原敬は長州藩と結び付きが強かった。原敬の祖先は盛岡藩の藩士であったが、平民宰相として人気を博したものの1922年(大正11年)、東京駅で青年に暗殺された。この当時、社会保障をめぐる議論も盛んとなり、米騒動後には、政府・地方で社会局の創設が相次いだ。
第一次世界大戦が終わって諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少し、1920年(大正9年)以後は戦後恐慌の時代となった。その戦後恐慌時代の1923年(大正12年)には、関東大震災が発生した。この未曽有の大災害に東京市は大きな損害を受けるが、震災後、第2次山本内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラストラクチャーが整備され、大変革を遂げた。また、ラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。
大正期を特色付けるのは、大正デモクラシーと称される政治の新しい動向である。桂太郎の首相への返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄・犬養毅らによる憲政擁護運動が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。山本内閣は軍部大臣現役武官制を緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢を示したが、シーメンス事件で退陣し、次いで庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(第二次大正政変)。
加藤内閣は、1925年(大正14年)には、身分や財産によらず「25歳以上の成人男子全員」に選挙権を与える普通選挙法を成立させた。ただ、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかしこれによって政党政治が定着するようになった。この後、1932年(昭和7年)に犬養内閣が五・一五事件による犬養毅首相の暗殺で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は終わり、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。
このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介、有島武郎・武者小路実篤・志賀直哉ら白樺派、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また、1924年(大正13年)には、演劇で小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などのエンターテイメントも徐々に充実した。
昭和・戦前戦中
政体:立憲君主制
天皇:昭和天皇(第124代天皇)
内閣総理大臣:内閣総理大臣の一覧(昭和戦前)参照
歴代内閣:日本国歴代内閣(昭和戦前戦中)を参照
国際社会:多極体制
関東大震災後の1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げ付きが累積し、それをきっかけとする銀行への取り付け騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻禮次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。
又、1925年(大正14年)には、中国では孫文の後を?介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利害を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であったため国内の野党から「満州某重大事件」として追及された。田中は昭和天皇に事件の調査を約束しながら、陸軍の突き上げによって事態を曖昧にしようとしたため、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。
田中内閣はもともと前の大正政変で生まれた護憲三派内閣、特に幣原外交の中国内政不干渉政策を「軟弱外交」として批判して登場した。従って田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、1928年(昭和3年)に、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。