日本語
[Wikipedia|▼Menu]
行阿の姿勢も基準を古書に求めるというもので、「お」と「を」の区別についても定家仮名遣の原則を踏襲している。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの一大変化があり、[wo]の音を含む語彙に関しても定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった。その結果「お」と「を」の仮名遣いについては、定家が示したものとは齟齬を生じている。

なお、「お」と「を」の発音上の区別が無くなっていたことで、五十音図においても鎌倉時代以来「お」と「を」とは位置が逆転した誤った図が用いられていた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」となっていた)。これが正されるのは、江戸時代に本居宣長が登場してからのことである。

外国人による日本語研究も、中世末期から近世前期にかけて多く行われた。イエズス会では日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(1603年)が編纂され、同会のロドリゲスによる文法書『日本大文典』(1608年)および『日本小文典』(1620年)は、ラテン語の文法書の伝統に基づいて日本語を分析したもので、いずれも価値が高い[190][191]。一方、中国では『日本館訳語』(1549年頃)、李氏朝鮮では『捷解新語』(1676年)といった日本語学習書が編纂された[192]
江戸時代「国学」も参照

日本語の研究が高い客観性・実証性を備えるようになったのは、江戸時代契沖の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて仮名遣いについて詳細に観察を行い、『和字正濫抄』(1695年)を著した[193]。この書により、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされ、契沖自身もその仮名遣いを実行した。契沖の掲出した見出し語は、後に楫取魚彦編の仮名遣い辞書『古言梯』(1765年)で増補され[194]、後世において歴史的仮名遣いと称された。

古語の研究では、松永貞徳の『和句解』(1662年)、貝原益軒の『日本釈名』(1700年)が出た後、新井白石により大著『東雅』(1719年)がまとめられた。白石は、『東雅』の中で語源説を述べるに当たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「義未詳」として曲解を排した。また、賀茂真淵は『語意考』(1789年)を著し、「約・延・略・通」の考え方を示した[194]。すなわち、「語形の変化は、縮める(約)か、延ばすか、略するか、音通(母音または子音の交替)かによって生じる」というものである。この原則は、それ自体は正当であるが、後にこれを濫用し、非合理な語源説を提唱する者も現れた。語源研究では、ほかに、鈴木朖が『雅語音声考』(1816年)を著し、「ほととぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほととぎ」「うぐい」「から」の部分は鳴き声であることを示すなど、興味深い考え方を示している[195]

本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず、仮名遣いの分野では、『字音仮字用格』(1776年)を著し、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じた[196]。その中で宣長は、鎌倉時代以来、五十音図で「お」と「を」の位置が誤って記されている(前節参照)という事実を指摘し、実に400年ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の形に戻した。この事実は、後に東条義門が『於乎軽重義』(1827年)で検証した。また、宣長は文法の研究、とりわけ係り結びの研究で成果を上げた。係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した[196]。主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。

品詞研究で成果を上げたのは富士谷成章であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・形容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した[194]。『挿頭抄』(1767年)では今日で言う副詞の類を中心に論じた。特に注目すべき著作は『脚結抄』(1778年)で、助詞・助動詞を系統立てて分類し、その活用の仕方および意味・用法を詳細に論じた。内容は創見に満ち、今日の品詞研究でも盛んに引き合いに出される[194]。『脚結抄』の冒頭に記された「装図」は、動詞・形容詞の活用を整理した表で、後の研究に資するところが大きかった。

活用の研究は、その後、鈴木朖の『活語断続譜』(1803年頃)、本居春庭の『詞八衢』(1806年)に引き継がれた[注釈 46]。幕末には義門が『活語指南』(1844年)を著し、富樫広蔭が『辞玉襷』(1829年)を著すなど、日本語の活用が組織化・体系化されていった[202][203]

このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、石塚龍麿の『仮字用格奥山路』がある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したもので、長らく正当な扱いを受けなかったが、後に橋本進吉上代特殊仮名遣の先駆的研究として再評価した[204][205][206]
近代以降

江戸時代後期から明治時代にかけて、西洋言語学が紹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっとも、西洋の言語に当てはまる理論を無批判に日本語に応用することで、かえってこれまでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった[207][208]

こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法をまとめたのが大槻文彦であった。大槻は『言海』の中で文法論「語法指南」を記し(1889年)、後にこれを独立、増補して『広日本文典』(1897年)とした[209]

その後、高等教育の普及とともに、日本語研究者の数は増大した。1897年には東京帝国大学に国語研究室が置かれ、ドイツ帰りの上田萬年が初代主任教授として指導的役割を果たした[210]
日本国外の日本語

近代以降、台湾朝鮮半島などを併合・統治した日本は、現地民の台湾人朝鮮民族への皇民化政策を推進するため、学校教育で日本語を国語として採用した。満州国(現在の中国東北部)にも日本人が数多く移住した結果、日本語が広く使用され、また、日本語は中国語とともに公用語とされた。日本語を解さない主に漢民族満州族には簡易的な日本語である協和語が用いられていたこともあった。現在の台湾中華民国)や朝鮮半島北朝鮮韓国)などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。

一方、明治大正から昭和戦前期にかけて、日本人がアメリカカナダメキシコブラジルペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が使用されたが、世代が若年になるにしたがって、日本語を解さない人が増えている。

1990年代以降、日本国外から日本への渡航者数が増加し、かつまた、日本企業で勤務する外国人労働者日本の外国人)も飛躍的に増大しているため、国内外に日本語教育が広がっている。国・地域によっては、日本語を第2外国語など選択教科の一つとしている国もあり、日本国外で日本語が学習される機会は増えつつある[211][212]

とりわけ、1990年代以降、「クールジャパン」といわれるように日本国外でアニメーションゲーム小説ライトノベル映画テレビドラマJ-POP邦楽)に代表される音楽、漫画などに代表させる日本の現代サブカルチャーを「カッコいい」と感じる若者が増え[213]、その結果、彼らの日本語に触れる機会が増えつつあるという[注釈 47][214]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:471 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef