日本語学
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実際、大阪大学文学部などでは別の研究室にあり、日本語学は「現代日本語を中心とした共時的・言語学的研究」[2]、国語学は「古代から近世までの古い日本語を文献学的・通時的に研究するもの」[3]としている。また、「国語学は標準語・中央語の研究に偏重し、言語変種方言など)が周辺に位置づけられがちだが、日本語学は変種を広く包括できる」という意見もある[4]

なお、日本国中学校および高等学校国語」の教員免許を取得するに際しては、教育職員免許法施行規則第4条および第5条に基づいて、規定単位数以上履修する必要がある科目の1種に「国語学」が設けられている。この場合、音声言語のみならず、文章表現に関するものを含む。
歴史「日本語#歴史」および「日本史時代区分表」も参照

日本語を研究する学問の歴史は「日本語学史」(または「国語学史」)と呼ばれる[5][6][注釈 3]。字義通りに解釈すれば、「近代以降に成立した科学としての歴史」を扱うことになるが、日本語に関心を寄せてきた人々の歴史は長く、古くから様々な分野の人々によって研究が行われてきた[注釈 4]。すなわち、「誰かが観察した」ということが重要になるので、「反省的に日本語をみる」と考えて差し支えない[11]。とりわけ質量ともに大きな変化が見られるのは明治前後であるが、これは日本語における言語変化というよりも、日本史上の政治的ないし社会的変化に負うところが大きいといえる[12]

いずれにせよ、言語資料に基づく(あるいは言語資料そのものについての)研究が、時代が下るに連れて精緻なものになって多大な成果を挙げているように[注釈 5]、日本語学史の研究には注目すべき進展が見られるので、さらに強力に推進することは、日本語研究の新しい分野や方法論の発展に重要であるとされる[13]。例えば細部において、いわゆる「大家」の有名学説がしばしば絶対視されて先行研究の存在が隠れてしまっているなど、個々の研究業績のプライオリティについて必ずしも十分な吟味がされているとは言い難い面があったとしても、その解体が進むことで真価が解明されることもある[14]。観察する者が結果を的確かつ適切に記述しているとは限らないので、記述された内容の考証は必要であるが、反省的な観察は、現代人が眺めていて気づかないような知見を与えてくれることが多い[11]

ここでは、一般的な日本文学史での区分に倣い、上代中古中世奈良時代?室町時代)、近世江戸時代)、近現代(明治以降)の3区分から記述する。
上代・中古・中世「上代日本語」、「中古日本語」、および「中世日本語」も参照

日本語学の萌芽は「自国語の意識化」という自覚的反省から発生した[12]。具体的には、古代における仏教思想との言語接触による学習や、中世における古典解釈などが、日本語を対象に探求する動機づけとなったのである。すなわち、あくまでも「実用」を目的として行われてきたのであり、「言語それ自体の解明」を目的に行われてきたのではない[15]
中国語(漢語)の受容真福寺本『古事記』割注で「訓高下天云阿麻下效此」、すなわち「天の字はアマと読む」と指定する形で、高天原の訓読を残している。

日本語の相対的な特徴が意識されるようになったのは、漢字における音節の構造に関する学習であった。例えば『古事記』には音注がしばしば付けられているが、これは漢字を借字として用い、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字で表記したものであり、いわばこうした表記法は、日本語の音節構造が異なることを認識していた証左と考えられる[16]。また漢文の訓読により、中国語にない助詞助動詞の要素が意識されるようになり、漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していた[注釈 6]。これが後に片仮名として用いられるようになり、やがては「てにをは」の名で一括されて研究分野の1つとなった。

日本語の1音1音を借字で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、平安時代に「天地の詞」「いろは歌」「大為爾の歌」など、あらゆる仮名を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立しており、音韻を1つの集団として認識することになった[18]。これらは後に物の順番を示す「いろは順」として用いられ、仮名の手本としても人々の間に一般化している[注釈 7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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