本記事の亡くなった乗客の一部は、重大な事件・事故によって被害を受けた著名人にあたるため、削除の方針ケースB-2の「削除されず、伝統的に認められている例」に該当するため、実名を掲載しています。
日本航空123便墜落事故
Japan Air Lines Flight 123事故機のJA8119(1984年4月16日撮影)
事故の概要
日付1985年8月12日 (1985-08-12)
概要整備不良を原因とする圧力隔壁の破損及び垂直尾翼の脱落。油圧系統を全喪失して操縦不能に陥り、山岳地帯に墜落。
現場 日本
群馬県多野郡上野村高天原山山中(御巣鷹の尾根)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度0分5秒 東経138度41分38秒 / 北緯36.00139度 東経138.69389度 / 36.00139; 138.69389
日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が操縦不能に陥り、群馬県多野郡上野村の高天原山山中ヘ墜落した航空事故である。日航ジャンボ機墜落事故とも言われる[1][2]。
520人の死者を出し、日本の民間航空史上最悪の事故であると共に、単独機としては世界最悪の航空事故となっている(死者数ではテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故につぎ史上2番目の被害)。また2024年に羽田空港地上衝突事故が発生するまでは、日本航空が起こした最後の機体全損事故であった。
原因は、機体尾部修理不良と設計上の欠陥であり、特に機体修理中に使用されたリベットの留め方が不適切だったことが明らかとなった[3]。この事故がきっかけで安全啓発センターが設置されるなど、航空安全および事故対策強化を求める動きを引き起こした[4]。現在でも本事故は航空安全対策の重要な教訓とされている。 123便は東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行定期旅客便で、事故当日の18時12分に羽田を離陸した。伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる頃の18時24分35.70秒において、約11 tの前向き外力が作用して[5]機体後部の圧力隔壁が破損、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し油圧操縦システムを全喪失して操縦不能に陥り、迷走飛行の末に18時56分28秒ごろ群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)に墜落した[報告書 1]。 乗客乗員524名のうち死亡者数520名、生存者4名で、2023年時点で単独機の航空事故としては世界最多の死亡者数を出した事故である[6](2機以上が絡んだ事故では、1977年3月のテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故が死者数583名で最多である)。 夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故[7][8]』『日航ジャンボ機墜落事故[9][10]』と呼ばれる場合もある。
概要