日本維新の会_(2016-)
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略称は「維新」[49]、1字表記は「維」[50]

自公連立政権に対しては、是々非々の立場を取っている[注釈 5][51][52]。そのため、立憲民主党をはじめとするいわゆる野党共闘とは距離を置いており、これらの野党を批判することも多い。

大阪府地域政党大阪維新の会を母体とする[注釈 6]2015年11月に、維新の党において民主党との合流に前向きな議員の方針に反対して、同党を離党した国会議員や首長らによって、おおさか維新の会(おおさかいしんのかい、: Initiatives from Osaka)として結成され[22]2016年8月23日に現在の党名に変更された[44]
党史2010年代の第三極の離合集散
前史

2012年に結党された(旧)日本維新の会は、母体となった大阪維新の会太陽の党のそれぞれ系列の議員が党内対立を繰り広げ、東西対立とも言われていたが、2014年夏にみんなの党との合併を巡って両派が決裂、大阪維新の会を中心とする橋下派38人と旧太陽の党を中心とする石原派22人(次世代の党を結党)に分党した。みんなの党も合併への賛否を巡って分裂し、合併派が結成した結いの党と日本維新の会が9月に合併、衆参あわせて52人の国会議員からなる維新の党が結党された。

しかし結党後、とりわけ橋下のライフワークであった大阪都構想住民投票2015年5月17日投開票)が反対多数で否決され執行部が交代した後の維新の党では、「政権には是々非々で対応するべき。民主党まるごとと合併する形での野党再編はありえない」と主張する最高顧問の橋下や日本維新の会系(以下「大阪系」)議員と、日本共産党や民主党との野党共闘を重視し、民主党と事実上まるごと合併をする形での野党再編を画策する代表の松野頼久ら執行部側との間で路線の違いが生じていた[53]
「維新の党」の分裂と「おおさか維新の会」の結成

2015年8月、幹事長の柿沢未途山形市長選挙で共産党や民主党が相乗りする候補を応援したことを切っ掛けに、党内対立が表面化する[54]。8月28日に橋下と同党顧問の松井一郎が維新の党を離党[55]、翌29日には橋下が維新の党から分党し新党を立ち上げることを宣言し、参議院議員の片山虎之助や大阪系議員らがこれに同調した[56]。「おおさか維新の会」という新党の設立を目指し、執行部側との分党交渉を始める。

10月、分党交渉が決裂し、維新の党執行部は新党に参加する見通しの国会議員や地方議員を除籍処分とした。これに対して大阪系の国会議員らは「10月1日以後は維新の党には代表や執行役員会が不存在の状態で除籍処分は無効」と主張[注釈 7]し、不服申し立てを行った[57]。また、維新の党の参議院会派「維新の党」は大阪系の片山が代表を務めていたため、10月16日、除籍処分への報復措置として執行部側の参議院議員5人の会派離脱届を独断で届け出た[58]。会派から追い出された[59]執行部派の5人は、改めて会派「維新の党(参議院)」を結成した。

24日、大阪系の国会議員や地方議員らは「維新の党における5月の代表選出と11月までの任期延長は、党大会を経ていない無効なものである」(すなわち、執行部による自身の除名も無効である)という解釈のもと、「臨時党大会」を開いて維新の党の解党を決議した。松野は大阪系の解釈および「臨時党大会」は無効と主張した。両者は主張を譲らず、更に政党交付金の使用権限を巡って訴訟状態に突入するなど、「維新の本家争い」と呼ばれる泥仕合が続いた[60][61]

10月31日、橋下や大阪系議員らが大阪市内で「おおさか維新の会」の結党大会を開催した。代表に橋下、幹事長に松井が暫定的に就任し、維新の党から除籍処分をされた大阪系議員を中心に19人の国会議員が参加した。11月2日、「おおさか維新の会」の設立が届け出られた[1]

両者の間での内紛は、12月8日に「維新の党を将来的に解党すること」との円満合意で終結した。この合意には「維新の党は将来的に解散すること」・「野党再編が実現した段階で、維新の党側が『維新』の名称使用をやめること」・「人件費など党運営に必要な経費を除いた政党交付金の国庫返納」・「双方が刑事訴訟民事訴訟を取り下げること」などが盛り込まれた[62]。2016年3月、維新の党は民主党に合流し、民進党となった。
橋下徹の政界引退と松井・片山体制への移行


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