日本統治時代の台湾
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日本政府は台湾の帰属について「主権の帰属先について、発言する立場に無い」としている[10]
行政機構
台湾総督府詳細は「台湾総督府」を参照1930年代(昭和5年-昭和14年)の総督府
(石川欽一郎・画)

台湾総督府は日本統治時代の最高統治機関であり、その長官が台湾総督である。総督の組織は中央集権式に特徴があり、台湾総督により行政、立法、司法、軍事が総覧され専制的な統治権が施行されていた。
沿革

台湾総督府の設立当初は民政陸軍、海軍の3局が設置されていた。民政局には局長部、内務、殖産、財務、学務の5部が設置されたほか、台湾民主国の活動が行われた期間に高島鞆之助が副総督として任命されたケースもある。1896年(明治29年)、陸海軍両局が統合され軍務局に、また局長部を廃止し民政局に総務、法務、通信の各部を置き7部体制となった。その後、1898年(明治31年)に民政局を民政部とし、従前の各部を廃止して民政部に14の課を設置した。1901年(明治34年)、民政部に総務、財務、通信、殖産、土木の5局と警察本署を設置。1919年(大正8年)の総督府官制変更の際には、民政部を廃止し、内務、財務、逓信、殖産、土木、警務の6局と法務部を設置した。
総督詳細は「台湾総督」を参照

1896年(明治29年)に施行された六三法及び1906年(明治39年)に公布された三一法あるいは1921年(大正10年)の法三号により台湾に委任立法制度が施行され、総督府はその中央機関と位置づけられた。一般の政策決定は総督府内部の官僚により法律が策定された後、台湾総督府による台湾総督府令の形式により発行した。また専売制などの導入など一部の内容は日本政府との事前協議及び国会の承認を必要とした内容もある。

1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)の期間中、日本は19代の台湾総督を任命している。その出身より前期武官総督期、文官総督期、後期武官総督期に分類することができ、各総督の平均在任期間は2年半である。

前期武官総督期の総督は樺山資紀桂太郎乃木希典児玉源太郎佐久間左馬太安東貞美明石元二郎である。この中で安東貞美と明石元二郎は台湾人の権益を保護する政策を実施し、明石はその死後台湾に墓地が建立されている。

文官総督時代は大正デモクラシーの時期とほぼ一致し、日本の政党の推薦を受け赴任された。1919年(大正8年)から、田健治郎内田嘉吉伊沢多喜男上山満之進川村竹治石塚英蔵太田政弘南弘中川健蔵が就任し1936年(昭和11年)まで文官総督が続いている。また台湾の統治方式を抗日運動の鎮圧から経済建設による社会安定に転換した時期である。

1936年(昭和11年)になると再び武官が台湾総督に任命されるようになった。この時期の総督は小林躋造長谷川清安藤利吉であり、1937年(昭和12年)に日中戦争支那事変)が勃発し台湾の軍事的価値が高まり、戦争遂行のための軍事需要への対応と軍事基地化がその政策の中心となった。最後の総督である安藤は戦後戦犯として拘束され、1946年(昭和21年)に上海において自殺している。
総務長官

台湾総督府初期は民政局長官:1895年(明治28年)、民政局長:1895年(明治28年) - 1898年(明治31年)、民政長官:1898年(明治31年) - 1919年(大正8年)と称され、1919年(大正8年)8月20日に総務長官と改称された。総務長官は台湾総督の施政を補佐すると共に、台湾総督府の各政策の実務を担当した。

台湾総務長官は、前身である民政長官などを含め水野遵曽根静夫後藤新平祝辰巳大島久満次宮尾舜治内田嘉吉下村宏賀来佐賀太郎後藤文夫河原田稼吉人見次郎高橋守雄木下信平塚広義森岡二朗斎藤樹成田一郎が就任している。
その他官庁

総督及び総務長官以外に総督官房文教局財務局鉱工局農商局警務局、外事部、法務部などが設置され、これら行政機関以外に法院、刑務支所、少年教護院、警察官訓練所、交通局、港務局、専売局台北帝国大学、各直属学校、農林業試験所などの司法、教育関係の部署を擁していた。
地方行政区域台南州庁舎(1920年完成)1912年の日本及び台湾の地図。1895年から1945年まで、台湾は大日本帝国の一部だった。「日本統治時代の台湾行政区分」も参照

中央行政機構以外に、内政統治を行うための行政区域が設置され、日本統治の50年間に10回もの改変が行われている。1895年(明治28年)、台湾統治に着手した日本は台北、台湾、台南の3県と澎湖庁を設置した。1897年(明治30年)には6県(台北県、新竹県、台中県、嘉義県、台南県、鳳山県)3庁(宜蘭庁、台東庁、澎湖庁)の下に78弁務署が置かれている[11]。組織可変は頻繁に行われ、1920年(大正9年)に実施した台北州新竹州台中州台南州高雄州台東庁花蓮港庁および澎湖庁1926年(大正15年)高雄州より離脱)の5州3庁設置と、その下に置かれた市・街・庄(高砂族の集落には社が置かれた)の地方行政区域で最終的な地方行政区域が確定することとなった。この時の行政区域はその後の国民政府による台湾行政区域決定にも影響を与えている。

なお、5州3庁は内地の都道府県に、市・街・庄および社は内地の市町村にそれぞれ相当する。また1920年(大正9年)の行政区域設定の際には、打狗を高雄、錫口を松山、枋橋を板橋、阿公店を岡山、媽宮を馬公としたような和風地名等への改称が行われ、改称された地名は現在でも数多く使用されている。

行政区域面積
km2)現在備考
台北州4,600.8新北市台北市基隆市宜蘭県
新竹州4,573.0桃園市新竹県新竹市苗栗県
台中州7,395.7台中市彰化県南投県
台南州5,444.2雲林県嘉義県嘉義市台南市
高雄州5,721.9高雄市屏東県
台東庁3,515.3台東県
花蓮港庁4,628.6花蓮県
澎湖庁126.9澎湖県1926年高雄州より分割
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