日本社会党
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1945年11月2日、新生日本社会主義によって切り開いていくべく[9]第二次世界大戦中に身を潜めていた社会大衆党を中心とする戦前の無産政党労働運動関係者、社会運動家らが安部磯雄らに呼応して結集し結成された[3][4][9][10][11][13]1960年1月に党内の右派が離党し、民主社会党(のちの民社党)を結成。本党は1996年に社会民主党に改名した。

全日本自治団体労働組合(自治労)、日本教職員組合(日教組)等の官公庁労働組合(官公労)を中心とした日本労働組合総評議会(総評)が最大の支持基盤だった。これらの支持基盤は、2022年現在も立憲民主党を中心に[29]、社会民主党や新社会党にも引き継がれている。
歴史
結党から片山内閣へ

1945年11月2日、第二次世界大戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が大同団結する形で、西尾末広平野力三水谷長三郎らが中心となり、日本社会党は結成された。日比谷公会堂で行われた結党大会で片山哲が書記長に選出された。委員長は空席とされた。婦人部長には赤松常子が就任した[30][31][32]

日本社会党は右派社会民衆党(社民)系、中間派日本労農党(日労)系、左派日本無産党(日無)系などが合同したもので、右派、中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、後に分裂して民主社会党(後の民社党)を結成していく右派は反共主義でもあった。日労系の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、護国同志会出身者を中心に、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒を目指そうとした者が多かった。

結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称を「Social Democratic Party of Japan」(SDPJ、直訳は日本社会民主党)とすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第に「Japanese Socialist Party」(JSP、直訳は日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの略称が再確認された。

このように社民系、日労系、日無系の3派の対立を戦前から引きずり、たびたび派閥対立を起こした。社会党結成に加わった左派の荒畑寒村は後に「社会主義とはまるで縁のない分子と、情実と、便宜のために作られたに過ぎなかった」と評しており、事実として結成懇談会では社会主義について全く触れられてはいなかった[33]。ただこの派閥対立は後述するように1959年の右派(後の民社党)離脱とベ平連運動後は自衛隊日米安保への賛否の対立はなくなっていくこととなり、この2つには反対で一致して行き、マルクス・レーニン主義か社会民主主義かを巡るものに収斂していった。

なお、日労系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。革新華族として知られた徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長片山哲が就任した(後に委員長に就任)。

ポツダム宣言受諾により、大日本帝国憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「社會黨 憲法改正要綱」を発表した[34]。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった[注 3]。また、新憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の規定および、27条で「休息」に言及したのは、帝国議会の審議で社会党の主張が反映された修正という[35]。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。

新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第1党となり、その結果民主党国民協同党との3党連立内閣である片山内閣が成立したが、右派の重鎮であった平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。

西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭和電工事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。

総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。
左右の分裂と総評、社会主義協会の結成「日本社会党の派閥」も参照

1950年(昭和25年)1月16日、社会党左派と社会党右派の対立激化で一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立し、1951年(昭和26年)10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年(昭和25年)に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長、島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。

しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では「平和四原則」(全面講和中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対)が決定された。


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