日本社会党
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原彬久は2000年の著作「戦後史のなかの日本社会党:その理想主義とは何であったのか」で、日本社会党は「社会主義国日本」との理想を目指して結党したが[52]、労農派マルクス主義を中心とする社会党左派は国際組織の社会主義インターナショナルと温度差があり[53]、ソ連・中国・北朝鮮との交流を重視し[54]、「理想主義」により急進左派とも接近したが[55]、その理想主義は脆弱で体力と戦略が不足していた[56]、と記した。

森裕城は2002年の著作「日本社会党の研究 - 路線転換の政治過程」の中で、「現実主義化」の効果は民社党の停滞を見ても疑問だが、日本社会党は自民党政治の「牽制政党化」し、「新宣言」での西欧的な社会民主主義路線も政治的スローガンの転換以上の意味を持たず、「政権獲得へ向けて社会党が戦略的な行動をとりえなかった」と記した[57]

依田博は上記の「日本社会党の研究 - 路線転換の政治過程」の書評の中で、日本社会党は政権担当政党としての信頼を有権者から得られなかったが、自由民主党と同様に「一枚岩ではない組織構造を持った政党」としては有権者の共感を得ていた、と記した[58]

木下真志は2003年の著作「転換期の戦後政治と政治学:社会党の動向を中心として」で、1950年代には逆コースや再軍備への国民の広範な反対があり、社会党左派・総評左派・社会主義協会の「左派連合」の結束によって躍進したが、1960年代にはこれらが争点ではなくなり社会党は衰退した、と記した[59]

山口二郎・石川真澄らによる2003年の共著「日本社会党 - 戦後革新の思想と行動」では、社会党の衰退原因として、戦前からの講座派と労農派の対立[60]、末端の党組織の弱さ[61]、中国・北朝鮮などとの「片面」的な関係[62]、自衛隊廃止の具体的なプログラムを提示できなかったこと[63]、「批判政党」との自己規定への満足[64]、1980年代の連合成立と社会民主主義勢力の結集の期待の際に、社会党も民社党も有効な連合政権構想を提示できなかったこと[65]、1990年代前期にも明確な政権構想を打ち出せず古い55年体制の既成事実に屈服したと受け止められたこと[66]、などを挙げた。

岡田一郎は2005年の著作「日本社会党:その組織と衰亡の歴史」で、社会党の衰退原因として労組依存体質と党組織の脆弱さ、左派と右派による不毛な派閥対立、構造改革論への反発、野党陣営の多党化、中ソ対立の影響、組織論なき路線転換、などを挙げている[67]

片岡鉄哉は、マッカーサーといつでも昼飯を食える立場にありながら、おっかなびっくりで、護憲のマッカーサーを敵だと思っていた片山哲の例を挙げて、権力にうとく、外交にうとい政党であったと評する[68]。社会党が一番敏感なのは内政面での逆コース反対で、国内で既得権益の現状維持ができれば、外交なんかどうでもかまわない、という無茶な姿勢になるのだという[69]。マッカーサーが、憲法を守る母体としての芦田・社会党連立内閣を、左(共産党)からの脅威から守るために出したマッカーサー書簡と政令201号を非難する社会党を「親の心、子知らず」と評する[70]

保守系の知識人としては、渡部昇一が「自民党の政治家は戦前の人たちと同じ普通の日本人だが、野党の政治家はそうではなくイデオロギーにとらわれた人々という感じがあった」と述べている[71]

屋山太郎1966年ストックホルムで開かれた社会主義インターナショナル大会で休憩していた際、記者室に顔を出したブルーノ・ピッターマン会長に「日本の社会党は社会主義インターへの参加資格は無いのだと伝えてくれ」と言われ、理由を尋ねると「社会主義インターは、自由主義を通じ民主体制を守る集団で、革命を目指す共産党は敵だ。その敵と常時組んでいる政党はインターに参加する資格は無い」と言われた。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 村山内閣以降の路線[4]
^ 正しい読み方は「にっぽんしゃかいとう」(『大辞林』)。広辞苑では「にほん」を見出しに取っているが、同辞書で「日本」を引くと、「本辞典においては、特にニッポンとよみならわしている場合以外はニホンとよませることにした。」と書いてあり、実態に即した読みにしたことがわかる。なお、点訳における表記は「ニッポン□シャカイトー」としている。[27]
^ なお、高野が個人的に作成した「日本共和国憲法私案要綱」では天皇制廃止と大統領制導入を盛り込んでいた。
^ この後、東京で二桁議席を得たのは1990年の第39回総選挙で12議席を得た時だけである。
^ 現在の社会民主党も、立法事務費に加え、政党交付金に頼る部分が大きい。国会における各会派に対する立法事務費の交付に関する法律も参照。
^ 最終的には2人目として、連合から白石健一を無所属として擁立したが、落選している。
^ 9月1日に新設の労働大臣を辞令。

出典^ a b c d e 議会政治研究会編『政党年鑑 昭和22年版』ニュース社、1947年、pp.157-187.
^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1084頁。ISBN 4-06-203994-X
^ a b c 精選版 日本国語大辞典 - にっぽん‐しゃかいとう ‥シャクヮイタウ【日本社会党】. コトバンク. 2019年4月6日閲覧。
^ a b c d e f g ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 日本社会党. コトバンク. 2019年4月6日閲覧。
^ 精選版 日本国語大辞典 - しゃかいみんしゅ‐とう シャクヮイタウ【社会民主党】. コトバンク. 2019年2月27日閲覧。
^ 知恵蔵mini - 社会文化会館. コトバンク. (2013年1月29日) 2019年4月6日閲覧。
^ a b The Editors of Encyclopaedia Britannica. “Social Democratic Party of Japan | political party, Japan” (英語). Encyclopadia Britannica Online. ブリタニカ百科事典. Encyclopadia Britannica, Inc.. 2020年11月24日閲覧。 “Social Democratic Party of Japan (SDPJ), formerly Japan Socialist Party, Japanese Nihon (or Nippon) Shakait?, leftist party in Japan that supports an evolving socialized economy and a neutralist foreign policy.”
^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ) - 革新政党. コトバンク. 2019年4月6日閲覧。
^ a b c d 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1088頁。ISBN 4-06-203994-X

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