日本社会党
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土井によれば、落選した場合の生活保障ができなかったことを理由に、勧誘を断られるケースが多かったという[42]。しかし、社会党内部では、政権奪取に失敗にもかかわらず議席数の回復への安堵感が強かったため、社会党は政権獲得の意志を持たない万年野党に満足する政党だとの批判を受けた。さらに、社会党の一人勝ちに、社会党と共闘路線をとっていた民社党・公明党の離反を招く結果となり、社会党の右派はこれを理由に「社会党の一人勝ち」を内部から非難さえした。

なお、この選挙で特筆すべきは公認候補だけで56人という空前の数の新人が誕生したことである。後述のように、この後社会党は政権参加を経ながらも、曲折の後に凋落の一途を辿り、中堅・若手議員の多くが民主党に参加する。社会党出身議員はその重要な母体となるが、中でも90年初当選組は大きな役割を担い、やがて2009年に実現する民主党政権でも、政権中枢の要職に就くことになる(この選挙での初当選議員として、仙谷由人松本龍岡崎トミ子赤松広隆細川律夫輿石東大畠章宏鉢呂吉雄らがいる。但し鉢呂は当選時無所属)。

いっぽう社会党の最大の支持基盤であった総評は槙枝元文議長、富塚三夫事務局長のもとで同盟、中立労連、新産別の労働4団体との「労働戦線統一」に向けて大きく舵をきり、1982年12月14日の全民労協の結成から、官公労も合流して1989年11月21日、日本労働組合総連合会(連合)の結成大会が開催された。これにともない総評は1989年11月に解散した。連合の初代会長には情報通信労連委員長・山岸章が選出された。これは総評の労使協調路線への転換によって、それまで対立してきた同盟との和解が可能になった[要出典]ことによって実現したものである。

1990年に発生した湾岸危機で政治課題となった自衛隊の派遣では、日本社会党は憲法9条堅持の立場から、「自衛隊海外派遣に反対」を主張し、民社党・公明党との関係は冷え込んだ。これと並行して民社党・公明党との協調を重視する連合など労組幹部などとの摩擦も強まり、土井執行部の求心力は急速に低下した。1991年の統一地方選挙で社会党は敗北、土井は責任を取って委員長を退いた。

なお、この年の東京都知事選では連合の山岸会長が公明党・民社党と共に磯村尚徳を担ぐよう社会党執行部に働きかけた。これは、山岸会長の持論である社公民路線の定着を狙ったものである。自民党の小沢一郎幹事長も磯村を自民党本部の候補として推薦した。社公民3党に小沢など自民党の一部が乗る形で実現した細川護熙内閣の構図はこのとき、既に出来ていたといえる。一方、社会党の独自性を強調する土井を中心とするグループは独自候補にこだわる一方で、なかなか候補者を決められず迷走した。土井を都知事候補に擁立し、土井人気を復活させようという動きも社会党の一部にあったが、土井が決断できず、水泡に帰した。社会党は選挙直前にようやく候補者(大原光憲)を決定したが、供託金没収点(法定得票数、全有効票の10%)にも満たない惨敗に終わった。

後任の委員長には、田邊誠上田哲が立候補し、全党員投票による選挙となった。有力支持労組をバックにした田邊有利との観測が強かったが、湾岸危機による安全保障論議を背景に左傾化する党内世論のもと、護憲平和路線の維持を訴える上田が左派主体の一般党員に支持を広げ、田邊は労組からの集団入党者の票でようやく勝利した。この選挙結果は、田邊執行部に大きな足枷となり、後の党運営を縛るものとなった。
田邊執行部とPKO法案

後任の田邊誠委員長は、自民党の金丸信に近く、右派・水曜会のリーダーとして現実路線を期待された。しかしそのことがかえって党内活動家やそれらと連携する党外の平和運動活動家などの警戒的世論にさらされ、1992年のPKO法案の審議では牛歩戦術を連発するなど、強硬な対決姿勢を取った。社会党はPKOを自衛隊とは別組織にすることを条件にPKO法案を受け入れようとし、自民・公明・民社(自公民)の3党は一度は文民による別組織を作ることで合意しており、PKO法案はすんなり成立するかに見えた。しかし、自民党の本心はあくまでも自衛隊によるPKOであった。そのため、民社党・公明党の同意を取り付けるとたちまち別組織案を反故にした(ただし民社党は、公明党を味方につけるため別組織案に合意したのであり、本心は自民党と同じであった)。このため、社会党はPKO法案そのものに反対な強硬派が主導権を握ったのである。

一方、民社党・公明党は自民党と共に内閣信任決議を可決させるなど、実質的に与党となっていた(自公民路線)。社会党は全衆議院議員の辞職まで打ちだしたが、最終的には抵抗を諦めた。その直後、7月26日投開票の第16回参議院選挙は自民党の勝利に終わり、社会党・連合は大敗した。社会党執行部は、改選議席を確保できたことのみに着目してまずまずの結果と強弁し敗北を認めなかったが、結局、田邊執行部は退陣し、書記長の山花貞夫が後任の委員長となった。
金丸訪朝団

1990年9月26日、北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の金丸信、社会党の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。訪朝は北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった。訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字が表示された。9月28日自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同宣言がなされたが、その中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、戦後における北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたため、後に大きな批判にさらされることとなった[43]

1989年に『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』に多数の社会党議員が署名したが、この釈放対象に北朝鮮による日本人拉致事件の実行犯、工作員・辛光洙(シンガンス)らが含まれていたことが後に問題となる。前年の1988年3月26日の第112回国会予算委員会で梶山静六国家公安委員長が拉致を北朝鮮の犯行が濃厚と認めていた。
細川連立内閣の誕生から村山内閣へ

1993年の第40回総選挙で社会党は新党ブームに埋没し、改選前の136議席から70議席と議席をほぼ半減させた。社会党の有力支持母体であった連合は政権交代を重視し、加盟産別労組の一部は、これを阻害する社会党の護憲派・左派候補を露骨に排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した(この「選別推薦」により連合の推薦を受けられなかった議員には、元党首の土井や岩垂寿喜男や上田哲がいる。なお、後に民主党の都議会議員となった真木茂は、選別の第一次案を自分が作ったと書いている[44])。特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席を失い、55年体制以来最低の議席数となった。長年の宿敵であった自民党が大敗した選挙であるにもかかわらず、社会党は却ってその存在感を失うこととなり、後のことを考えれば皮肉にもこれが社会党にとっての"終わりの始まり”であったとも言える。

総選挙後に非自民・非共産連立政権細川内閣に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。閣僚人事においても、主要閣僚は新生党や公明党、日本新党等、細川護熙をはじめ羽田孜、小沢一郎、市川雄一ら旧与党内の実力者に独占された。また、総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任、9月に村山富市が委員長に就任した。

1994年、小選挙区制導入に反対した一部議員や党員が離党し、新党護憲リベラル護憲新党あかつきを結成したことで党の弱体化に拍車がかかった(96年には社民党離党者が新社会党も結成)。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から社会党の連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発した村山は羽田連立内閣から離脱を決め、羽田政権は少数与党として発足した。

1994年6月、羽田連立与党は自民党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、新党さきがけと連立した、自社さ政権である村山政権が発足した。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には新進党結党により、衆議院で第2党から第3党に転落した。また消費税の税率を3%から5%にすることを閣議決定した。その後の1995年の第17回参議院選挙では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。
社会民主党への改称1990年代の政党の離合集散

1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第1回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。小選挙区比例代表並立制のもとでは、社民党単独での衆議院議席獲得は至難であることが予想されたため、新党さきがけとの合併や、鳩山由紀夫船田元らが提唱した新党構想への合流などの議論が絶えなかった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在の社民党は日本社会党との連続性を標榜しているが、成立当時は逆に社会党との断絶を強調していた。[要出典]


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