日本社会党
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そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派で後に分裂して民社党を結党していく勢力は、次第に明文・解釈改憲[36] に傾いていった。
再統一と60年安保闘争・三池争議1955年10月13日、左右両派は党大会を開き、社会党再統一を果たした。

1955年10月13日、左右両派は神田共立講堂で党大会を開き社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)[37]。1950年代の躍進により、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大した。同年11月には保守合同自由民主党が結成され、両党を合わせて55年体制とも呼ばれるようになった。

当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年3月には、最高裁判所機構改革に並行し、違憲裁判手続法の法案を衆議院法務委員会へ提出した[38]。また、7月の第4回参議院選挙では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。

1957年1月には労働者農民党が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で衆議院160議席となっていた。

しかし、1958年の第28回総選挙では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一 1/3 を超す議席を獲得した選挙だった。

1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。

これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側と協調する動きを見せるなどした(第二組合、左派から見た御用組合)。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。

当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。
構造改革論争と「道」の策定

民社党が分裂したものの野党第1党の地位を維持しながら、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。浅沼稲次郎委員長刺殺事件直後の1960年第29回総選挙では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。

1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の江田三郎は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという構造改革論を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた佐々木更三との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。

社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義については、資本主義体制を認めた上の「改良主義」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視した。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する革命を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連・中国や東欧諸国など東側の共産主義陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、共産主義の東側諸国に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ベトナム戦争」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。

この時期、日本共産党が第6回全国協議会(六全協)を開催し、混乱要因であった武装闘争路線を放棄し、ソ連・中国と決別し自主独立路線を採用した。日本共産党は日本社会のマイノリティーとも一線を引くことになり、部落解放同盟朝鮮総連は日本共産党と距離をおき、日本社会党との距離を縮めていくことになる。

党内の派閥対立は、民社党として右派が離脱後は安全保障(自衛隊、日米安保を認めるか)を巡るものはほぼ解消され、マルクス・レーニン主義路線の是非を問うものに変わっていった。
党勢の停滞

この間、1963年の第30回総選挙では前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は政権獲得に必要な過半数の候補者を擁立しなかったものの、後年の長期低落にみられるような候補者数の絞り込みはしていなかった。

社会党議員団の中に、労組への過剰依存に対する懸念がなかったわけではない。1964年には、成田書記長によって、「日常活動の不足、議員党的体質、労組依存」が社会党の弱点として指摘されている[39]。いわゆる「成田三原則」と呼ばれるものであり、停滞克服の一定の努力はした。要するに大衆的基盤の欠如が問題視されたのであるが、この点は以後も結局改善されず[39]、また成田が指摘した三原則の克服は、党官僚の跳梁跋扈や、党活動家の左傾化、議員や議員後援会から党が遊離することなど、後に江田離党問題に浮上するような、世間から社会党が遊離する原因ともなった。更に社会党は、社会変化に適応した政策策定の不十分さと内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され社会党には流入せず、社会党の支持層は、旧支持層の加齢に並行して高齢化していき、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。
低落を決定づけた1969年の総選挙

1969年の第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した[注 4]。この原因について石川真澄は、選挙の投票率が前回から大きく下落し、その下落幅が社会党候補の絶対得票率の下落にほぼ等しいこと、新聞各紙による社会党候補者の当選者数の予想の失敗(朝日新聞はこの選挙での社会党の当選者数を118名前後と予想していた)から、前回選挙までは社会党に投票していた旧来の支持層の多くが棄権し、投票所に行けば社会党候補に投票するはずであった有権者の相当部分が実際には投票所に行かなかったため、社会党候補の得票数が減少し、その結果として各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。そして、この時に社会党にとって特に不利になるような社会構造の変化が突然起こったわけではない以上、当時の政治的な問題が原因だとしか考えられず、その原因として考えられるのは、この時期に起きた社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争=内ゲバ)、中華人民共和国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)などについて、社会党がはっきりと批判的な態度を取らず曖昧な態度に終始していたこと、文革やソ連の侵攻について党内には理解を示す動きすらあったことではないかと推測している。また、この時から各種世論調査で「支持政党なし」層が急増することにも注目し、社会党を支持していた層のうち、69年総選挙で一旦棄権した後、社会党支持には戻らず「支持政党なし」に移行した有権者が多数存在していたのではないかとも述べている。

しかし、自主独立路線を確立しソ連や中国への批判姿勢を強めた日本共産党は、この時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。


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