日本海海戦
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1904年明治37年)2月の開戦時点では、日本側は上記に加え、アルゼンチンより購入した装甲巡洋艦「春日」と「日進」もシンガポールまで回航していた。対して、ロシア側は戦艦「オスリャービャ」を本国(バルト海)から派遣途中だったがまだインド洋にいた。またボロジノ級戦艦5隻はまだ本国で建造・調整中で派遣に至っていなかった。「オスリャービャ」は開戦直後、合流不可能と判断し本国へ引き返した。

開戦時の奇襲を受けたロシアの旅順艦隊(太平洋艦隊の主力)は増援の可能性を考慮し、無理に制海権争いを行わず要塞砲の守りがある旅順港へ籠った。一方ウラジオストク巡洋艦隊通商破壊を行い成功させたが大勢に影響を与えなかった。1904年5月、ロシアは極東へ増派する大規模な新艦隊の編成を発表した。これに「第二太平洋艦隊」の名前を与え、それまでの太平洋艦隊は第一太平洋艦隊と改称した。その後、司令長官にはジノヴィー・ロジェストヴェンスキー少将(後に中将へ昇進)、副司令官にはドミトリー・フェリケルザム少将を任命した。しかし主力艦足りえるのは「オスリャービャ」の他はボロジノ級戦艦のみであり、そのうちの4隻が完成する10月まで出発することはできなかった。ロジェストヴェンスキーは黒海艦隊から戦艦を引き抜くことを考えたが、ロンドン条約の遵守をイギリスから求められ仮装巡洋艦のみがこの遠征に加わることとなった。バルト海には戦力を残さず動員することになったが、ロジェストヴェンスキーは修理で出発が遅れる上に戦力にならないとして旧式艦の多くを遠征から外した。ロジェストヴェンスキーは戦力不足と判断し、アルゼンチンから装甲巡洋艦を購入することも検討されたが交渉はまとまらなかった。

当時、常時石炭補給が必要となる蒸気船の大艦隊を戦闘状態(水兵と武器弾薬を満載)でヨーロッパから東アジアまで回航するのは前代未聞であった。その航路は、イギリスの制海権下にあり、日英同盟およびドッガーバンク事件の影響により、関係も険悪となっていた。補給は、イギリスが良質な石炭を押さえていたので低質の石炭しか入手できない見込みだった。ロシアと露仏同盟を結んでいたフランスも日英同盟によって牽制を受け、中立国の立場以上の支援を行うことはできなかった[注釈 4]

1904年5月以降、旅順は他と連絡を絶たれ孤立、旅順艦隊はウラジオストクへの脱出を試みるようになる。当初は決断できずにいたが旅順攻囲戦が始まると陸上部隊から艦隊が攻撃を受けたため、脱出が断行されたが損害を受けて断念された(黄海海戦)。主力艦は戦艦1隻のみの損失であったが損傷は少なくなく、補助艦艇の大半を失ったため艦隊機能は著しく下がり、脱出をあきらめざるを得なかった。またその出迎えに出たウラジオストク巡洋艦隊も邀撃され行動できなくなる損害を受け(蔚山沖海戦)、制海権は完全に日本の手に渡った。

1904年10月に出発したバルチック艦隊は、黄海海戦と陸上からの砲撃による旅順艦隊の損害状況がわからぬまま進んでいたが、1905年1月に旅順要塞が陥落し港内で沈没していた艦艇も日本の手に渡ったことが判明した。遠征の目的地はウラジオストクに変わり、バルチック艦隊単独で連合艦隊と対することになる。戦力不足であるとしてロシア海軍上層部はロジェストヴェンスキーの反対を押し切り、修理が終わっていた旧式艦を更なる増援としてニコライ・ネボガトフ少将を司令長官とする第3太平洋艦隊を編成した。

1905年2月には奉天会戦が行われ満洲にいるロシア軍は大きな損害を受け長期に亘る補充が必要となった。ロシア国内では血の日曜日事件が発生するなど国内情勢が不安定になっており、早期の形勢逆転が望まれるようになっていたが陸軍のみではできなくなっており、バルチック艦隊によって制海権を奪取することが求められるようになった。これにより日本の満洲軍の補給を絶ち一気に逆転するためである。一方、日本側でも戦力と戦費の枯渇により早期決着を望んでおり、奉天会戦後に講和を模索するがバルチック艦隊に期待するロシア側に拒否されていた。連合艦隊としてはウラジオストクに入られ準備を万端にされる前のバルチック艦隊の戦力を大きく削り、ロシアの継戦意欲を絶つことが目標となった。

なお主力艦1隻でもウラジオストクに入れば、日本の制海権は脅かされ補給に支障が出て日本側の失敗であるとされることもあるが、戦力的に日本側優位になれば制海権が問題とされる海域は日本の勢力地周辺であり制海権は日本側で揺るがない。実際に蔚山沖海戦ではウラジオストク巡洋艦隊の装甲巡洋艦2隻が復帰できていたが、戦争の大勢に影響は出なかった。バルチック艦隊の艦艇は航続距離が短い艦艇が多く、通商破壊には不向きで捕捉撃滅もウラジオストク巡洋艦隊より比較的容易である。
前哨バルチック艦隊東航図。第2太平洋艦隊とスエズ通過の支隊、第3太平洋艦隊の航路ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。
バルチック艦隊の出航

1904年明治37年)10月15日、第2太平洋艦隊はリバウ軍港を出航した。

同10月21日深夜、第2太平洋艦隊は北海を航行中にイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷した(ドッガーバンク事件)。これによってイギリスの世論は反露親日へ傾いた。以後第2太平洋艦隊はイギリス海軍艦隊の追尾を受け、これをしばしば日本海軍のものと勘違いして、将兵は神経を消耗させられた[1]

11月3日、タンジェ(モロッコ)で第2太平洋艦隊は喜望峰を回る本隊とスエズ運河を通過する支隊に分かれた。この理由は、第2太平洋艦隊は戦艦でもスエズ運河を通過できる大きさで設計された艦のみで構成されていたが、実際には建造の不手際と追加資材の搭載による重量超過で喫水が当時のスエズマックスを上回ってしまい、かなりの弾薬や石炭を降ろさなければ通過できず余計に時間がかかるとみなされたためである。


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