日本沈没
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

音源は放送ライブラリーで保存・公開[58]されていた一方、文化放送社内では長らく作品のことは「忘れ去られたまま」[59]だったという。その後、当時の放送を収録したオープンリールが小松宅で偶然見つかったことをきっかけに、2023年12月から2024年1月にかけて計4回放送された年末年始特番『小松左京クロニクル 「日本沈没」を探す旅』の中で、50年ぶりに再放送された[56][59][注釈 46]
スタッフ(1973年の単発ラジオドラマ)

脚本:
横光晃

音楽:桑原研郎

演奏:新室内楽協会

制作:鈴木久尋

音響(効果):玉井和雄

調整(技術):小林信夫

演出:芦沢務

キャスト(1973年の単発ラジオドラマ)

中尾彬

日色ともゑ

前田昌明

加藤嘉

久米明

杉山とく子

松本のり子

ほか
1980年のラジオドラマ

NHK連続ラジオドラマ(1980年「連続ステレオ小説」としてNHK-FMで放送、のちにAMで再放送)。1話15分の全10回放送。設定年代を「198X年」とした他はほぼ小説通りのストーリー展開である。FMでの初回放送の直前に総合テレビの『NHK番組ガイド』で取り上げられ、東京大地震の群集シーンの収録風景が紹介された。

脚色:津川泉

キャスト(1980年のラジオドラマ)

小野寺俊夫:
鹿賀丈史

阿部玲子:島村佳江

田所博士:巖金四郎

幸長:纓片達雄

中田一成:大塚国夫

山崎:川久保潔

渡老人:宮口精二

首相:久米明

オーストラリア首相:久松保夫

国連特別委員会委員長:加藤精三

語り:小林恭治

テーマ音楽:シベリウス交響曲第1番レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニック演奏版(1967年)を使用。オープニングは第1楽章、エンディングは第4楽章からの抜粋。BGMも第4楽章からの抜粋が多く使われた。

1970年代と2000年代の漫画詳細は「日本沈没 (漫画)」を参照
玩具

『おおくに&メカコレクション』(
青島文化教材社) - テレビ版に登場したメカの商品化。おおくに、わだつみ、ケルマデック、はやとが含まれる[注釈 47]

『日本沈没 D1計画篇』『日本沈没 D2計画篇』(タカラトミー) - 映画リメイク版のメカコレクション。主に劇中登場した自衛隊の装備や深海潜水艇が中心だが、撮影に用いられたタグボートもラインナップに含まれる。

海上自衛隊輸送艦しもきた』(タカラトミー) - 映画リメイク版で登場した輸送艦「しもきた」の1/700模型。

実現しなかった映画化案
『日本列島沈没』

1971年ごろに『日本沈没』を原作とした映画『日本列島沈没』を大映が製作発表した[22]。経緯としては、1971年ごろにマスコミで東京大地震が話題になっていたことに着目して大映社内で東京大地震を特撮映画にする企画が浮上。そんな中、1972年秋に『放送朝日』の対談記事で小松左京がその種の話を執筆していることが判明し、東京大地震のストーリー提供を打診したところ、『日本沈没』の執筆を教えられ、小松から出版前の生原稿を提供される。これを大映社内の企画会議で検討した結果、前向きに企画が動き出すことになる。ところが大映社長の永田雅一が、社内でこの企画を動かしていた担当者に何の連絡もなく独断で突然『日本列島沈没』を製作発表。制作費の目処が立っておらず、正式な契約書も交わしていない段階で小松に無断での発表だった。結局『日本列島沈没』の企画はそのまま棚上げとなり、原作の出版後に東宝が正式に映画化権を取得した[60][61][注釈 48]
『続日本沈没』の企画

1973年末夕刊紙に東宝の翌年以降の大作ラインナップの広告が出された際、『エスパイ』、『ノストラダムスの大予言』などと共に発表された[62]。製作前の各作品に「抽選で50名を試写会にご招待」とまで告知された。

監督と特技監督には前作と同じ森谷司郎と中野昭慶を起用。タイトル横に付けられたキャッチ・コピーは「祖国を失った日本人は世界史から抹殺されるのか?」だった。プロットとしてはジュネーブで再会する小野寺と玲子、難民化した日本人の受難、日本政府の裏資金での国土調達活動などが描かれると言われた。しかし、小松の原作執筆が進まず、公開予定が1976年に延期されたのち、製作は立ち消えになり幻の企画となった[63][62]
『新日本沈没』の企画

1995年から1998年にかけて、東宝により企画された再映画化案。北山裕章と映画『さよならジュピター』の監督を務めた橋本幸治がプロデューサーとされ、脚本家として米村正二らが候補に上がった。ストーリーには原発事故による複合災害や新島での日本再建といった要素が盛り込まれ、CGと特撮の併用による撮影が計画されていたが、同時期に企画されていた松竹の『日本沈没1999』が先行して映画化の許諾を得ていたことから、企画は立ち消えとなった[64]
『日本沈没1999』の企画

画像外部リンク
『日本沈没1999』のティーザーポスター
1999年2月11日に閉館した映画館『松竹セントラル』入口付近のチケット売場にて。

1998年9月30日銀座東急ホテルで、松竹1999年12月から公開する2000年の正月映画として『日本沈没1999』の製作発表を行なった。監督には大森一樹を起用。ストーリー面では、大森と小松両氏が1995年の阪神・淡路大震災の被災者でもあることから、その経験を活かそうと阪神・淡路大震災当時に見られた若者たちのボランティア活動やインターネット上の動向を盛り込もうと意欲を見せたほか、原作小説におけるD-2計画に重点を置いたものになる予定であった。また、先述の『新日本沈没』と同様に原発災害を盛り込む案も存在した[65]。映像面ではスペクタクルシーンにCGを活用する方針を採用。光吉俊二、大原伸一といったスタッフの名前が挙げられ、パイロット映像も作成されていた。

総製作費12億円、配収目標30億円の大作になる予定だったが、業績不振の松竹は制作費を調達できず、1999年3月5日の記者会見で大谷信義社長が「検討中」とコメントし、同作の関係社員を異動させたことも明らかとなり、事実上の製作中止が確定した[66][注釈 49]。結局、2000年の松竹の正月映画には大島渚の監督作『御法度』が公開された。
小説『日本沈没 第二部』

小説の続編である『日本沈没 第二部』が、2006年の再映画化に合わせ、谷甲州との共著という形で2006年7月に出版された。
執筆までの経緯


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:346 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef