いわゆる兵法三大源流(陰流、神道流、念流)が興った。なかでも神道流の祖・飯篠家直は、それまで決まった形の無かった日本武芸の世界に百般に亘る形の原型を創ったことから、「日本兵法中興の祖」とされている。またそれらの影響を受け新陰流や新当流、一刀流、中条流等が派生して一挙に剣の道が広まった。柔術系の武術としては竹内流が成立した。他の武芸についても、能や歌のように芸とみなされ理論の確立や深化が進められた。武芸を専一に行う兵法家の道を歩む者たちが現れ、武者修行が隆盛した。また彼らのなかには自流を上覧に供したものもいた。
近世柳生新陰流
武術の様々な流派は、戦国時代において形成されたものは少なく、多くがむしろ戦乱の収まった江戸時代に発展した。幕藩体制のなかで各藩は指南役を設けたり、特定の流儀を御流儀(御留流)として指定するなどした。 江戸幕府成立により断続的に起きていた内戦が収まり、初期においては未だ戦乱期の気風が残っていたものの、その後約250年にも亘る平和な時代へと突入していくことになる。 戦闘技術は武士道の理念や禅宗・密教の思想と密接に繋がり(例:剣禅一致)、武術が人を殺めるための「術」ではなく、人格形成のための「道」として本格的に捉えられていくようになった。文武の両面が融合したことで「武道」の基本的概念が確立し、古武道は理想的武士像形成の手段として研究・習得されるようになる[7]。また流派の細分化や芸道化がより顕著に見られるようになり、それまでにあった戦国の香り残る殺伐とした武骨な流派にも礼法が積極的に摂取され、所作も洗練されるなどして、様式化がなされていった。 しかしながら各流とも相互の交流を試みることなく、むしろ他流試合を厳禁して封鎖的、排他的であった。その弊害として、行き過ぎた形式主義に流れて一部で華法化(華美化)も見られるようになった。そこで18世紀半ば、華法化の流れを断ち切るかの如く現れたのが、剣術における打ち込み稽古であった。この方向性は他の武芸にも波及し(柔術や槍術における乱取り・地稽古の導入など)、理論・技術研鑽の気運が高まった。そして松平定信による寛政の改革もまた、その気運を大きく伸長発展させた。江戸市中の文武師家に書上(調査・報告)を命じ、内容のいかがわしいもの、技術の未熟なものに指南の禁止を命じたり、諸士の武芸上覧を復活させるなどした。また一方で武術は武士以外にも積極的に開放され、町人や農民にとって余暇の楽しみともなり、都市部や農村地帯で広く行われるようになった。ただしこれに対して、幕府は関東取締出役を設置した1805年(文化2年)に、農民間の武芸稽古を禁圧する令を出している。幕末期の剣術。稽古道具や試合方法が共通化していき、後の現代武道へと繋がっていく。(F・ベアト撮影) 19世紀になると、本土への外国船の接近が相次ぎ、武芸教育への関心が高まる。藩営の武芸稽古場・演武場を設置する所が増加したほか、全国で武者修行や他流試合、武術留学が流行し始め、各地の師範名をまとめた書物が発刊されるなどした。様々な流儀で交流が行われ、剣術や槍術、柔術などで打ち込み稽古が主・形稽古が従となっていき、稽古道具や試合方法が共通化していった。また、幕末の志士たちの多くが江戸の有名道場(江戸三大道場等)で学び、全国に人脈を広げていった例からわかるように、武術の道場は、学問所と同じように、ある意味サロン的な役目を果たすようになっていった。 このように様々な経緯を辿りながらも、「実力・地位・名声のある流派のみが生き残る」と言った「弱肉強食」的な競争原理は、他芸と同様に武芸分野においても働かず、樹形図状に流派は増加していき、その数は幕末までに数百(あるいは千)を越えたと言われる。 明治維新後、文明開化中で武術は時代遅れと断ぜられ衰退した。武術家たちは撃剣興行等の見世物興行を行い武術を振興しようとした。また反乱の起こす者もいたという。明治10年(1877年)の西南戦争で警視庁の抜刀隊が剣術を用いて白兵戦を優位に戦った影響により、その後警察に武術世話掛が創設され、絶滅の危機は脱せられたとされる。また、当初フランス式剣術を採用していた陸軍も後に日本式の軍刀術、銃剣術を制定した。しかし、兵器や戦術の進歩によって活躍の場は失われていった。 明治15年(1882年)、嘉納治五郎は新しく柔道を創設した。教育者であった嘉納の思想は後の武道家に強い影響を与えた。明治28年(1895年)には各種武道の総本山となる大日本武徳会が設立され、日本の武道界を統括するようになっていった。多くの地方流派が大日本武徳会に加盟して剣道や柔道を取り入れ、伝来の形、口伝、掟等の伝承が徐々に失われていった。
江戸時代
明治・大正時代
明治維新後1888年(明治21年)頃の警視庁武術世話掛の集合写真
現代武道の誕生大日本武徳会・柔道形制定委員の集合写真
第二次世界大戦(太平洋戦争)により、沢山の流派において継承者が戦死するなどの原因から失伝(伝承が途絶え、失われること)したという。また、昭和20年(1945年)日本の降伏後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令により大日本武徳会は解散し、武道の組織的活動は禁止された(講和成立後の1953年に再興)。これにより、剣道が撓競技と名を変えたように、武道は戦闘技術色を払拭したスポーツとして復興を図ることとなった。 現代に伝承されている古武道は、古式の形態を守りつつも時代に合わせて変化している例も多い。中には現代武道化したところもあるが、現代においても様々な形で受け継がれている。日本古武道協会や日本古武道振興会
現代