日本標準時
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このことが雑誌「UNIX USER」(ソフトバンク)で取り上げられた結果、1999年にはtzdataから西部標準時が削除され、その後のバージョンでは「South Ryukyu Islands」という選択肢はなくなった[50]2006年4月1日にリリースされた、エイプリルフール版のFreeBSD 2.2.9-RELEASEでは、このバグがわざと残されている。
標準時の通報の歴史

標準時の通報や、有線/無線報時に関する歴史は次の年表の経過をたどる。
標準時の報時のはじまり

1886年明治19年)

明治19年勅令第51号[19]の制定により標準時が確立した直後から、内務省地理局観象台の観測をもとに、標準時を逓信省東京電信局に通報し、そこから全国に標準時が通知されていた[51]


1888年(明治21年)

1月1日

明治19年勅令第51号の標準時が施行された[52]。この日の0時0分の時刻は内務省地理局観象台が全国の電信局に通報しており、以後もしばらくの間、正午報時信号が地理局観象台から各電信局に通報されていた[53][54]


5月

内務省、海軍省文部省稟議のうえ、内務省と海軍省が行っていた天象観測と、内務省の時刻管理や書の編纂事業等は文部省へ、設備・土地や職員とともに移管することにした[54]


6月4日

東京大学観象台、海軍省観象台、内務省地理局観測課天象部の三者が合併し、明治21年文部省告示第2号で、海軍省観象台の地に、東京天文台が置かれ、帝国大学(現・東京大学)に属した[55][56][57]。しかし、当時はまだ8インチ赤道儀は内務省地理局内(東京府赤坂区葵町)にあったため、麻布区飯倉の東京天文台から台員が出張して観測していた[58]


9月26日

東京天文台では、この日から、陸軍省の依頼により正午を通知する正午号砲用の時刻比較を始め、逓信省の依頼で電信局への正午時刻の通報を行うことになる[59][54]


10月23日

東京天文台での恒星の観測はこの日以降から行われた[54](恒星の観測は、観測地点の経度測量平均太陽時の測定に必要とされる)。


12月5日

明治21年勅令第81号で、天象観測および暦書調製が文部大臣の管理となり、時刻の管理は正式に内務省地理局(国土地理院の前身)から東京天文台に移管される[57][60][53]



1895年(明治28年)12月28日

標準時ニ関スル件(明治28年勅令第167号)が公布(翌年1月1日に施行)され、従来の標準時(東経135度の子午線の時)を中央標準時と称することになる[61]


無線報時のはじまり

1911年(明治44年)12月

無線電信法による標準時の艦船への通報を実験的に実施。東京天文台が陸上連絡電線により銚子無線電信局識別信号:JJC、周波数:500kc)に中央標準時を伝え、電波を発射する方法により、毎日午後9時が通報されるようになった[62][51]


1912年大正元年)9月

JJCの無線報時が正式業務として開始される[62]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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