日本書紀
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^ この点を象徴するものとして、坂本太郎の「六国史で、歴史を研究する前に、六国史を、研究する段階が必要だと思うのである[15]」という指摘が、しばしば引用される[16]
^ 例えば「倭」が「日本」、「大王」が「天皇」になっている等。
^ 高句麗の『新集』は古記(留記)を改削したものであるとされる。
^ ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照
^ 笹川説によれば、建皇子の生母と葬地に関する記述の整合性に問題があり、天武天皇の時代から国家的事業として『日本書紀』の編纂作業が行われたとすれば、天武天皇の皇后(持統天皇)の実弟に関する疑問点は彼女から尋ね得た筈だとする。また、川島皇子らは「上古の諸事」に関する編纂を命じられたとされているのに、当の天武天皇の時代の出来事(=現代史)を含める『日本書紀』の実態は天武天皇の命と矛盾するとしている、とも指摘している。
^ 森博達 (1991)の評価・要約については遠藤慶太 (2015), p. 24、笹川尚紀 (2016), pp. 127?128、荊木美行 (2018), pp. 13?14、および森博達 (2011)にある森本人による学界からの反応のまとめなどを参考にした。
^ 他には綏靖天皇紀で2回、神功皇后紀で3回記され、天武天皇紀では元年でなく2年に記されている。
^ 太歳甲寅の年、十月一日(月立ち、即ち朔)の干支が丁巳、その月の辛酉の日の意。六十干支の並びは丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉...と続くことから、辛酉の日は朔(1日)の4日後である。つまり神武天皇の東征開始は太歳甲寅の年の10月5日であることがわかる。
^ 辛酉の年の春正月(1月1日)、朔の日の干支は庚辰。
^ 公転周期ではない。
^ 天文学的紀年法に依る。計算上の利便のため、西暦0年を設定するため、-666年は紀元前667年である。以下の年次も同じ。
^ なお、小川によれば『日本書紀』で用いられている儀鳳暦は中国で作られた本来の儀鳳暦ではなく、計算を簡便にするために簡略化されたものである。同論文に付された斎藤国治の解説を次に引用する。「儀鳳暦は本来『定朔法』(日月の天球上運動を不等速とする)をとる暦法であるが、『書紀』編纂当時の暦算家は逆算の手間をはぶくため、より簡単な『経朔法』(日月の天球上運動をそれぞれ等速と仮定する)を採用して算定する。」
^ 国産みの一書第一では天神が太占で時日を定めたとあり、日神アマテラスと月神ツクヨミの誕生後、弟のヒルコが三歳になっても脚が立たなかったという記事が最初の年数経過である。また国民の死と誕生の起源を語るイザナミイザナギの会話は一日の概念に基づいており、ツクヨミが保食神を殺す神話では月の満ち欠け、春と秋の起源が語られる。
^ なお、平安時代公卿三善清行は、昌泰4年(901年)辛酉の年に、当年が革命の年に当たることから改元すべきことを醍醐天皇に上奏した。この時彼が提出した上申書は「革命勘文[104]という名で知られており、『易緯』の鄭玄注はこの革命勘文の中で引用されているものである。この中では「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」とあり、一蔀は1320年とされている[105]。しかし、「革命勘文」の説明に従えば一蔀は「廿一元」であり1260年であるはずである。那珂通世は三善清行の計算違いを指摘し、推古朝を起点とする説を提唱した大津は、三善清行は昌泰4年の改元を実現するために一蔀を1320年とする作為を加えたようにも見えるとする。一蔀1320年とした場合、神武天皇即位から一蔀後の斉明7年が蔀首となる。三善清行は、そこから4×60(240)年後の901年大変革命の年となると主張した。
^ 現存の『三国志』では景初二年とあるが、『日本書紀』始め『梁書』、『翰苑』など古い時代の引用文が景初三年とすることから、誤写として景初三年に修正するのが通説である。
^ なお、『日本書紀』は越年称元法(前君主の翌年を元年とする)、『三国史記』は当年称元法(前君主の死去の年を元年とする)で記述されているため、『日本書紀』の「百濟王子貴須が王となった」年は『三国史記』では近仇首王二年に相当する(倉西)。
^ 神功皇后39年を239年、雄略天皇5年を461年とする。
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