『日本書紀』は日本の現存最古の「正史」とされるが、その編纂までには日本における文字の使用と歴史的記録の登場の長い歴史があった。日本(倭)における歴史(即ち過去の出来事の記憶)についての記録として、まず言及されるのは「帝紀」(大王家/天皇家の系譜を中心とした記録)と「旧辞」(それ以外に伝わる昔の物語)である[17]。これらは津田左右吉が「継体・欽明朝(6世紀半ば)の頃に成立した」と提唱して以来、様々な議論を経つつも、「元々は口承で伝えられていた伝承が6世紀にまとめられたもの」と一般的には考えられている[18][19][20]。さらに、文字に残された系譜情報を「史書」として見るならば、雄略朝(倭王武、ワカタケル大王、5世紀後半)にはその種のものが存在していたことが稲荷山鉄剣銘の存在によってわかる[21]。
こうした歴史の記録には、書記官の存在が不可欠である。日本における文字の使用が渡来人によってもたらされたことも含めて、日本の修史事業は朝鮮半島・中国大陸の情勢と深く関係していた。日本では5世紀後半から6世紀にかけて、倭王権の下に史(フミヒト/フヒト)と呼ばれる書記官が登場する[22]。彼ら、フミヒトの多くは渡来人によって構成され、人的紐帯に基づいて倭王権に仕える形態からやがて欽明朝期の百済からのフミヒトの到来を経て制度化されて行った[23]。「帝紀」「旧辞」がまとめられていったとされる時期がこの欽明朝にあたると考えられ、同時期には朝鮮半島において百済と競合する新羅でも修史事業が進められていた[23]。
「書かれた歴史」を編纂する修史事業の記録は推古朝に登場する。『日本書紀』によれば皇太子(聖徳太子、厩戸皇子)と嶋大臣(蘇我馬子)の監修で推古28年(620年)に『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』がまとめられた[24]。推古朝の修史事業はこれらの史書が現存しないことや聖徳太子という伝説的色彩の強い人物と関連した記録であること、具体的な経緯などの情報に乏しいことなどから実態が必ずしも明らかではない[25](これらはいわゆる「国史」に分類されるようなものではなかったとする津田左右吉の見解や、それに反論する坂本太郎の見解など[26])。しかし、推古朝において日本における修史事業が始められたことは当時の東アジアの潮流と軌を一にする[27]。上に述べた新羅の修史事業は真興王6年(545年)に「国史」をまとめたものであり、高句麗は嬰陽王11年(600年)に『新集』と呼ばれる史書を撰述している[28][注 4]。百済については修史事業の具体的な記録は残っていないが、『三国史記』の記述からは近肖古王(在位:346年-375年)代以来、何らかの「記録」があったことがうかがわれる[29]。
これらの諸国の修史事業は4世紀以来、国家体制の構築や中華王朝との関係の変化の時期に行われており、外交上の必要性を重要な要因として行われたものであったと見られる。このことは恐らく日本(倭)の推古朝の修史も同様であった[29]。後に中国大陸を統一した唐は外国からの朝貢使の受け入れにあたり国情聴取を制度として実施していた。実際に日本の遣唐使の使節が「日本国の地理及び国初の神名」を問われたことが『日本書紀』の記録に見え、このような外交の場のやりとりは、各国に自国の成り立ちを意識させることになったであろう[22]。