日本新党
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「基本目標」は以下とされた[15]
立法府主導体制の確立 (政治過程の浄化・透明化、行財政改革の徹底、内閣が行政府の最高機関として機能と責任を果たせるような仕組み創出)

生活者主権の確立と選択の自由の拡大(過度の許認可等の政府規制を撤廃し、市場メカニズムとこれを適切に補完する地方および国の公共システムに委ねる、国民税負担を上限40%に抑える)、

地方分権の徹底(国税と地方税につき、税はまず地方が徴収し、その一部を国税とすることで自治体財政の補助金依存構造を改革)

異質・多様な文化の創造(多様、柔軟、分権、自由・自立を重んじる教育制度、教育行政への転換。多様な文化こそ、未来を拓く最も根元的な生命力であるという基本認識に立ち、国際社会に開かれた、風格ある文化国家建設)

世界平和へのイニシアチブ(平和憲法の理想を高く掲げ、20世紀末までの核兵器生物兵器化学兵器の全廃と全面軍縮を目指す。日米欧三極安全保障と政治経済の協調を堅持しながら、アジア太平洋地域の経済協力を発展させ、世界の平和維持と地域紛争処理の国連活動に積極的に貢献)を示す

「政策プログラム」は以下であった[16]
地球環境問題への貢献(官民合わせ環境保全費にGDP2%を目標に設定する)

開放経済の促進(GATTウルグアイ・ラウンドの成功)

平和外交の主導(核軍縮、PKO、防衛費のGDP比1%上限、専守防衛非核三原則武器輸出三原則の厳守)

政治改革の断行(情報公開法の制定、政治過程の透明化、個人サービス合戦を抑えるために衆院選に中選挙区連記制を検討、電子投票政党助成企業献金廃止、政治資金報告義務強化、政治家・団体による株・土地投機禁止)

行財政の改革(外交、防衛、天皇・皇室、貨幣マクロ経済計画、基本的人権・生命・健康維持、製品サービスの全国的基準・規格制定、国勢調査など全国統計、国政選挙、国税を除き原則地方自治体や民間に権限と財源移管、できる限り公的年金に過度の依存をなくす。食糧生産の過剰介入を排する。中央政府は土地用途規制や大都市農地など遊休地に課税強化)

21世紀のための教育革命(教育の地方分権、学校選択の自由、教師選択の自由、教科書検定制度廃止、カリキュラム編成・学部学科編成・学校設置基準教員資格・学校収容定員などの過剰規制の見直し、旧帝国大学は大学院大学にする。国立大学は公立または私立に移管し地域密着。大学に学外有識者を入れ、自己点検・評価制度導入、教育・文化施設の積極的対外開放)

ブレーンの一人が同じ熊本出身で元共同通信論説委員長の内田健三だった。内田家は代々熊本藩細川家の藩医を務めていた。内田はまた、松下政経塾の常務理事を務めており、細川の新党と同塾との深い縁が生まれた[17]。そのほか、ブレーントラスト、知事時代の秘書、後援者などの人材が集まりはじめた。

5月18日には最初の会議が開かれて決定機関として常任政務委員会を設置し、ここで基本政策、党則、選挙対策、党名などを決定していった。「自由社会連合」は仮称であり、改めて政党名を公募し、全国から200を超える党名候補が集まった。細川やプランナーなど5名[18]がその中から選考して平成新党と日本新党の2つに絞った上で、細川の知り合いの外交官の意見により、英語名が国際的に通用すると判断した「日本新党」(Japan New Party)を党名とすることに決まった[19]。5月22日に正式に党を結成して東京都選挙管理委員会に届け出、代表には細川が就任した。6月には東京都港区高輪に本部を設置した。
1992年参議院議員選挙

第16回参議院議員通常選挙公示日前日の7月7日、細川は比例順位を立候補者に伝えた。1位の細川に次いで2位に記載されたのはニュースキャスターの小池百合子だった。3位は多数国間投資保証機関長官の寺澤芳男[20]、4位は元新農政研究所長の武田邦太郎、5位は日本新党の政策を立案した組織委員長の松崎哲久、6位はエコノミストの小島慶三、7位は「ニコニコ離婚講座(現・離婚と母子の110番)」の創立者の円より子、8位は元日本青年会議所副会頭の安田公寛、9位はテニス選手の佐藤直子。小池が特段に優遇されたことから、党員の一部から強い不満の声が上がる。佐藤は、小池より自分が下位に置かれたことにショックと怒りを覚え、比例順位が伝えられたその日に出馬を取り止めた[21]

同年7月26日、参院選が実施される。比例区で3,617,235票 (7.73%) を獲得。擁立した公認候補者17人のうち、順位1?4位の細川・小池・寺澤・武田が当選した[注釈 1]

同年11月、次期衆院選に向けて、国内では初めての候補者公募を行うと発表した[22]

1993年1月の新潟県白根市長選では日本新党の単独推薦候補者が、自民党日本社会党両党の推薦候補者を破って当選を果たし、地方でもその人気の高さを示した。なお、同年6月23日には党組織委員長や党総務委員長を務めた実質党ナンバー2の松崎哲久を「党員としての適格に著しく欠ける」という理由で除名するなどのトラブルもあった。

同年4月13日、党は約150名の応募者の中から、弁護士の枝野幸男と出版社社長の三浦和夫の2名を次期衆院選候補者に選んだと発表した[23][24][25]
1993年衆議院議員選挙

国会では政治改革関連法案の不成立により政局が動き、宮澤内閣内閣不信任案が成立、宮澤喜一首相は6月18日に衆議院を解散した(いわゆる嘘つき解散)。6月21日には武村正義らが自民党から離党して新党さきがけを、6月25日には羽田孜らが自民党から離党して新生党を結成した。そんな中、6月27日の1993年東京都議会議員選挙では初めての本格的な地方選に挑み、22人の公認候補者を擁立、20人が当選、推薦を含めて27人と都議会の第3勢力に躍り出た。

7月3日には新党さきがけと政策合意を締結した。また、両党間の幹部の間では将来の合併が模索され、後に一つの政党になることを発表した[26]

7月18日第40回衆議院議員総選挙では細川や小池百合子参議院から衆議院に転出するなど追加公認を含めて57人を擁立、35人が当選した。公募で選ばれた2人の候補者については、枝野幸男のみが当選した。選挙後の7月19日に新党さきがけと衆院院内会派であるさきがけ日本新党を結成することを発表。52人の第5勢力となった。
政権与党時代「細川内閣」、「羽田内閣」、および「非自民・非共産連立政権」も参照

1993年7月23日には「政治改革政権」構想を発表、キャスティング・ボートを行使する形で小選挙区比例代表並立制の導入など連立政権参加の条件を非自民勢力と自民党に提示した。両勢力ともに受け入れを表明したが、結局、非自民を掲げて選挙戦を戦った議員の意向や新生党代表幹事であった小沢一郎が細川に首相就任を打診し、細川が受諾したことで非自民勢力と連立政権を組むことになった。こうして8月9日、38年ぶりの政権交代が実現し、政治改革を掲げる細川を首班とする非自民・非共産8党派連立内閣(細川内閣)が発足した。

9月16日には民主改革連合と参院院内会派である日本新党・民主改革連合を結成。11月18日には新生党と参院院内会派である日本・新生・改革連合を結成。さらに1994年2月4日には参院会派「民社党・スポーツ・国民連合」と統一会派である新緑風会を結成し、他党との連携を次々と深めていった。

一方、1994年1月には紆余曲折の末ではあるが政治改革4法が成立した。ただ、政治改革が実現したことによって連立政権は目標を失うと同時に消費税を国民福祉税と衣替えして税率を7%に引き上げようとした「国民福祉税構想」騒動などがおこり、求心力を失っていった。また、小沢と武村の政治路線に関する対立も激しくなっていき、小沢は内閣改造を細川に進言し、細川は武村を更迭しようとするなど、新党さきがけとの関係も険悪化していった。ただ、党内には新党さきがけとの合併路線を維持しようと模索する議員もいた。そんな中、自民党は細川の佐川急便グループからの借入金処理問題を徹底的に追及した。


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