鎌倉時代から室町時代には、京都の貴族が古典研究や有職故実の学問の担い手となっていた。しかし、貴族の地位の低下と共に、仏教寺院や学識僧が徐々にその担い手として台頭し、その中でも鎌倉五山を中心とした五山文学はその代表である。
また武家階級という新たな社会層も、自らの後進のために、学問を身につけるための施設、学校の整備に配慮するようになり、鎌倉時代には北条実時が金沢称名寺(現、神奈川県横浜市金沢区)に金沢文庫を設置し、多くの文書を収集した。また、遅れて室町時代には関東地方において上杉憲実が足利学校を再興する。これは、キリスト教の宣教師たちに「坂東の大学」といわれ、当時の日本の中心的な学校と考えられた。また西洋人の目からみて、その当時の代表的な学校は、他に高野山、比叡山などがそれに並べられていた。
庶民の間では、芸事や趣味の道が次第に洗練されたものになり始め、『風姿花伝』のように芸の道を人間の道と重ね合わせて修行のありようを考えるという視点も、この武家階級の時代の産物である(芸道論)。 江戸時代中期の教育は教育機関となる区分が存在せず、幕府によって選定された人物が学問の研究を行い書物を刊行し、武士・百姓・町人の身分制度の中で自学自習するといったことが行われていた[1]。 17世紀半ばから18世紀初めの幕藩体制安定期の元禄文化は社会の安定と経済の発展に伴い、町人に受け入れられる文学や芸能が生まれ、身分秩序の枠内で生きる人々の言葉をつかんだ。特色は武士と上方豪商が担い手で、現実主義・合理的・実証主義的傾向であった。儒学、自然科学、古典研究が発達し、自由な人間性の追求が行われた(町人文学 政治のあり方や自己の生き方についての指針を求めるものが多くなった。忠孝
近世
江戸時代初期・中期
元禄文化
儒学
諸学問の発達『大和本草』(国立科学博物館の展示)
儒学の影響により、現実的で合理的な思考が発達し、歴史学をはじめとする実証的な学問が芽生えた。また、国文学にも目が向けられ、古典の研究がさかんになった。歴史学の分野では、1657年に徳川光圀が大義名分論に基づく紀伝体の『大日本史』編纂を開始し、1906年(明治39年)に完成した。中国歴代の正史の体裁を採用した史書で幕末の尊王論に大きな影響を与えた。国文学では、真言宗の僧であった契沖が下河辺長流の影響をうけ、万葉集を初めとする古典の研究に専念し、国学の基礎を築いた。天文学の分野では、幕府の碁方であった暦学・天文学者の渋川春海(安井算哲)は平安時代以来使われていた宣明暦の誤差を、元の授時暦と天体観測によって修正した貞享暦を1684年(貞享元年)に幕府に建言して採用され、初の天文方に任命された。貞享暦にかな書きされた注は人々が生活するうえでも参考になった。数学(和算)の分野では、関孝和が筆算を創始し、円周率の研究などに業績を挙げた関流和算を完成させた。算額は、各地の和算家たちが神社に奉納した自作問題の絵馬を飾り、回答を絵馬にして答えたりした。和算の入門書とも言える『塵劫記』は吉田光由が完成させ、1627年に刊行された。平易な例題で実生活における数量計算や解法を示した。本草学の分野では、和漢洋の1362種類の動物・植物・鉱物を分類、解説した書である『大和本草』を貝原益軒が記し、1709年に刊行された。観察や経験を重視した益軒は日本の博物学発展の先駆けとなり、実用書としての価値も高かった。
享保・寛政・天保の輸入制限の緩和(1720年)と天文台の設置(1744年)を行った。幕府直轄の昌平坂学問所は、昌平坂に面していたので昌平坂学問所、または昌平黌(こう)とよばれた。1790年(寛政2年)老中松平定信は、寛政の改革の一環として、柴野栗山・岡田寒泉を湯島聖堂付きの儒者に登用し、湯島聖堂あずかりの林家に対し朱子学擁護を命じた。この「寛政異学の禁」の後、学舎が増設され、旗本・御家人だけでなく、藩士・郷士・浪人らも聴講ができるようになった。1793年に林述斎が林家をついで大学頭となると、それまで林家の家塾だった「湯島聖堂」が、正式に幕府直轄の学問所となった。学問所では、毎月の定日に経書の講義や会読、小試・大試などの試験もおこなわれた。また、初学者のための学問所直轄の教授所が深川・麻布・麹町にあった。さらに、『寛政重修諸家譜』『新編相模国風土記稿』など、幕府の編纂事業も学問所がおこなっていた。