日本振興銀行
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2003年(平成15年)2月12日、東京青年会議所(東京JC)が第一ホテル東京で開催した例会で、パネリスト木村剛が「20億円集めれば銀行をすぐに作れる。」と発言したことをきっかけに、東京JC入会希望者として出席していた消費者金融の資金元である卸金融を手がけていたノンバンク「オレガ」の落合伸治が20億円用意し、木村がアドバイスする形で、「中小新興企業融資企画株式会社」を設立して銀行設立準備に入った[4]。2003年度東京JC理事長平将明も銀行設立計画に賛同し、JC会員約90人から1億円が集められた。同年8月20日に予備免許申請が金融庁に受理され、同日夕刻、落合、木村、平の3人が「日本振興銀行設立」記者会見を行った。以降、新聞雑誌など多くのメディアで「東京JCが新銀行をつくる」と事実に反する報道がされ、東京JC事務局にはOBからの苦情や一般からの問合せが殺到した。2日後の8月22日、平は「公益法人営利企業の設立はできない。個人の立場で記者会見に臨んだ」と東京JCメールマガジンを通じて見解を明らかにした[5]

東京都千代田区みずほ銀行大手町支店跡地大手町ビル2004年(平成16年)4月21日に開業した。

設立資金20億円出資者の設立発起人で社長に就任していた落合は、木村や平を含む役員らに銀行役員を解任され、木村を告発するなど混乱が続いた[6][7][8][9]
経営破綻

2010年(平成22年)6月7日から一部業務停止命令を受け[10]、7月に検査妨害の疑いで元役員が逮捕されたこともあり、定期預金の引き出しが続き、資産状況が悪化。9月の中間決算で1804億円の債務超過となる見込みとなったことから、9月10日午前6時から臨時取締役会を開催し、内閣総理大臣金融庁)に対して預金保険法第74条第5項に該当する金融整理管財人による管理が必要な事態である旨の申し出を行うことを決議した。これを受けて同日、申し出を行い、金融庁が同行に対して金融整理管財人による業務財産管理命令、預金保険機構を金融整理管財人に選任、同日から3日間の業務停止命令を出した[11][12]。振興銀は、同日中に東京地方裁判所民事再生手続開始の申立てを行い、設立から6年余りで経営破綻した。日本の銀行破綻としては、創業前の2003年(平成15年)11月末に生じた足利銀行以降、およそ6年10か月ぶりであった。

政府と預金保険機構は、預金保険法に基づき、預金の払い戻し保証額を元本1000万円とその利子までとする定額保護、いわゆる「ペイオフ」を1971年(昭和46年)の制度創設後初めて発動。振興銀はペイオフを意識した預金の募集を行っており、5800億円程の預金のほとんどがペイオフ限度以下の預金で、ペイオフ限度超の預金を保有していたのは預金者の3%にあたる3560人でそのカット対象となる預金は120億円程度にとどまった[13]。当局者は預金保険制度を悪用したモラル・ハザードであると問題視していた。その一方で、老後のマンション購入資金の貯蓄用途にと4000万円余りを預金し、破綻翌日に店舗に出向き、報道機関の取材を受けた個人も存在していた。

第二日本承継銀行は同日、合併の基本合意を締結し、破綻から8か月後を目処に事業譲渡を行うこととした。当面は金融整理管財人の元で営業を続け新規の預金および自動継続を受け付けるが利子は主要金融機関の利子を参考にしたものを適用し、保護対象の既存の預金に関しては事業譲渡以前に満期が来るものについては満期利率および中途解約利率がそのまま適用され、満期が事業譲渡以降になるものに関しては事業譲渡の際に同意書が送られ同意するものに付いては事業譲渡以前までの利率とその後定められる満期利率が適用され、同意しない旨を伝えられた預金については、約定利率を破綻日まで適用した利息が払い戻される[14]

負債額は2010年(平成22年)3月末で約6194億7100万円[15]

9月13日以降の当面の営業店舗は、同年9月1日以降も営業時間を短縮しなかった店舗に限定され、それ以外の店舗は、それ以前に統合が予定されていた店舗を除き9月21日と27日に分けて再開することとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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