日本思想
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また、研究分野が細分化し、政治思想史や仏教史などのほかに、研究者は古代中世近世近代時代区分ごとの専門を持つようになっていった。
丸山政治思想史学の登場と批判

政治哲学者南原繁の勧めで日本政治思想史を始めた丸山眞男の『日本政治思想史研究』は、敗戦後の日本で学生たちを中心に広く読まれ、『現代政治の思想と行動』と共に戦後民主主義の普及に一役買っていた。丸山は朱子学に代表される政治秩序を「自然」と見なす前近代的思惟様式に対して、荻生徂徠が政治秩序は「作為」的であると考えたとし、近代的思惟様式の幕開けと論じ、日本人の思想の中に近代西洋思想を受け入れる素地があったと主張した。しかし、安保闘争を機に丸山の依っていた講座派理論のいう半封建的な社会が一向に民主化へ向かわない政治情勢に絶望して、「歴史意識の『古層』」が収められた『忠誠と反逆』以降は、古代から流れる「つぎつぎとなりゆくいきおひ」という日本人の思考方法がある限り近代化は不可能であるという結論に至った。丸山は藤田省三植手通有松本三之介渡辺浩など多くの後進を育てた。狩野亨吉の発掘した安藤昌益は、エドガートン・ハーバート・ノーマンの『忘れられた思想家』で再度取り上げられ、封建制批判の先駆者として称賛された。

尾藤正英は『日本封建思想史研究』で朱子学と封建制を直接結びつける丸山を批判し、日本朱子学の中にも幕府の支配体制を擁護する山崎闇斎と批判する中江藤樹熊沢蕃山という二つの流派が存在することを主張した[注 3]吉川幸次郎加地伸行らの中国文学者中国哲学者は、丸山の漢文読解に誤りが多いことを指摘している。安丸良夫は『日本の近代化と民衆思想』を著し、大思想家ばかりを取り上げるのでなく、民衆史の視点から幕末から近代にかけての民衆思想を研究した。子安宣邦は『「事件」としての徂徠学』で丸山の「自然と作為」という見方を批判し、丸山は自身の近代主義的な歴史哲学に合わせて荻生徂徠をはじめとする思想家たちを実際のあり方から変形させてしまったとする。渡辺浩は『近世日本社会と宋学』で、中国近世と日本近世で同じ儒学用語でも意味が異なることを指摘した。
新しい日本思想史研究

若尾政希は『太平記読みの時代』で安藤昌益を始めとする思想家や藩主たちが朱子学よりも『太平記理尽抄』から学んで政治思想を形成したことを論じている。
国際的な日本思想史研究

日本学の研究は欧米やアジアの大学で行われており、アメリカシカゴ大学ではテツオ・ナジタハリー・ハルトゥーニアンヴィクター・コシュマンが日本思想史の「シカゴ学派」を作り出した。
各時代の思想
古代・中世「日本の仏教」も参照

封建制が定着する以前の日本では仏教が日本思想の本流を占めた。聖徳太子によって政治的に導入された仏教文化は奈良時代に「国家鎮護」の思想として完成された。平安時代が始まると、「国家鎮護の思想」の代わりに密教が一般的になった。しかし後に、「末法思想」によって悲観主義が一般的になった有名な時代に、この世界での命をなげうって未来の声明を強く称揚する浄土思想が広がった。武士が政権を握る鎌倉時代が始まると、新しく起こってきた社会階級(武士)のための「新」仏教が現れた。
日本への仏教の到来と初期の影響

古代の日本では、仏教の到来は国家の建設や中央集権化と密接に関連していた。聖徳太子蘇我氏は古代日本の宗教を牛耳っていた物部氏を戦争で打ち倒し、体系的な法典と仏教に基づいた国家統治の計画を起草した。推古天皇の摂政である聖徳太子は蘇我氏と協力しながら「外国の」仏教に深い理解を示し[注 4]、仏教によって国の政治を安定させようとした。仏教の力で国の平和と安全を得ようとする思想は「国家鎮護」思想と呼ばれる。奈良時代に、特に聖武天皇の時代に、国分寺・国分尼寺が全国に建てられ、東大寺大仏奈良に作られた。鑑真が東大寺の戒壇をもたらした時期に、国家による仏教政策が頂点に達した。

奈良仏教が「国家鎮護」思想の面を強く持っている一方で、平安仏教は国の平和と安全だけでなく個人の現世利益ももたらした。それらが強く禁欲主義的な実践、つまり山中での加持祈祷を行ったため、これらの仏教は密教と呼ばれる。空海中国の秘密仏教を学び、真言宗を開いた。最澄は中国の天台宗を学び、法華経の精神こそが仏教の神髄であると固く信じた


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