(沿革節の主要な出典は公式サイト[18])
略歴「日本大学開校の地」の碑
時の司法大臣であるとともに、神職養成を行う中央機関である皇典講究所の所長を務めていた学祖・山田顕義は、日本の国文・国史の研究とともに国法も重視すべきとし、1890年(明治23年)に皇典講究所の校内に國學院を設立した際の「國學院設立趣意書[19]」にはその三科が記されている。その一方で、東京帝国大学教授の宮崎道三郎らも山田と同じ趣旨で法律学校の設立計画を進めており、それを知った山田は彼らを全面的に支援することとした。その結果、1889年(明治22年)10月に日本法律学校が設立され[20]、翌1890年(明治23年)に皇典講究所が国史・国文・国法を教授する國學院を開校する際に、その国法を専修する所として同校が位置づけられることとなった[21]。いずれは日本法律学校も國學院に合併する予定であったが、1892年(明治25年)の山田の急死により頓挫した(皇典講究所の神職の教育養成機関としての役割は國學院大學神道文化学部に引き継がれている) [22]。
1898年(明治31年)3月に高等専攻科を設置。財団法人となり分離独立し、文理学部の前身となる高等師範科を設置。1903年(明治36年)に日本大学と改めた。翌年、専門学校令に基づく大学、経済学部と商学部の前身となる商科を設置。1920年(大正9年)、大学令認可となる。この頃、私立大学の中では初めに女子の入学を認めた。6月、理工学部の前身となる高等工学校を開設。翌年、芸術学部の前身となる美学科を設置。翌月には、歯学部の前身となる歯科医学校を開校。その4年後に医学部の前身となる専門部医学科も設置。戦後の学校教育法施行に伴い新学制に移行した。平成には天皇・皇后が祭式に出席した。その後も、学部増設や組織改称を繰り返し、16学部そのうち87学科、20研究科、5付属病院が置かれる。
年表
明治明治末期の皇典講究所東京都千代田区飯田橋の東京区政会館前にある皇典講究所發祥記念碑。日本大学と國學院大學が1985年(昭和60年)に設置。日本法律学校講師陣と第1回卒業生(1893年12月)日本大学高等師範部修身法制科卒業生(1906年)三崎町校舎(1912年)
1882年(明治15年)11月 - 旧所在地・東京府麹町区飯田町五丁目8番地に皇典講究所が開校[23]。
1889年(明治22年)
1月 - 山田顕義が皇典講究所所長に就任。
10月 - 日本法律学校を設立(初代校長・金子堅太郎。法学部の前身)[24]。
1890年(明治23年)9月 - 皇典講究所講堂で開校式を挙行(翌月授業開始)。
1892年(明治25年)11月 - 学祖山田顕義死去。
1893年(明治26年)
7月 - 第1回卒業式を挙行。
12月 - 司法省指定学校となり、判事検事登用試験の受験資格を得る。第2代校長に松岡康毅就任。校友会を結成。
1895年(明治28年)10月 - 神田区一ツ橋通町(現・千代田区一ツ橋2丁目)の大日本教育会内に移転。
1896年(明治29年)6月 - 同区三崎町(現・神田三崎町)の新校舎に移転。
1898年(明治31年)
3月 - 高等専攻科を設置[25]し、卒業生に日本法律学士の称号を授与。
12月 - 学校組織を財団法人に改め、皇典講究所より分離独立する[26]。
1901年(明治34年)10月 - 高等師範科(文理学部の前身)[27]を設置。
1903年(明治36年)
2月 - 高等予備科(予科の前身)・高等法学科(学部の前身)を設置。
8月 - 校則を改め大学組織となり、日本大学と改称[28]。高等専攻科を専門部高等専攻科、高等師範科を高等師範部、高等法学科を大学部、高等予備科を大学予科と改称。制服・制帽・徽章を制定。
10月 - 外国語専修部(英語・ドイツ語専修科)を設置。
1904年(明治37年)
3月 - 専門学校令による大学となる(旧制専門学校)。政治科・商科(経済学部[29]および商学部[30]の前身)を設置。
1905年(明治38年)
9月 - 専門部に外国語科を設置(1907年廃止)。
10月 - 大学部商科の授業開始[31]。
1906年(明治39年)
1月 - 大学部を第一部(法律科)・第二部(政治科)・第三部(商科)に分割。商科附属殖民科を設置(1912年廃止)[32]。
8月 - 初の留学生をヨーロッパへ送る[33]。
1907年(明治40年)5月 - 東京獣医学校(生物資源科学部獣医学科の前身)設立認可。
1908年(明治41年)2月 - 日本高等予備校設立認可。
1911年 (明治44年)4月 - 大学部・専門部の政治科の授業開始。
大正
1913年(大正2年)4月 - 日本大学中学校開校(最初の附属中学校となる)。
1914年(大正3年)6月 - 「建学ノ趣旨及綱領