日本列島
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もっとも広義では、樺太島台湾島を加え[7]、さらに南西諸島、伊豆諸島小笠原諸島、千島列島を加えて表現することもある[注釈 6][注釈 7]
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中新世前期には、沈み込みによる大陸辺縁の分離が活発化した。(23-18 Ma)※Maは百万年前 (Mega annum) - 主に地質学で使われる時間の単位

鮮新世後期 - 更新世前期には、日本海の拡大は終息して島孤は現在に近い配置になっている。(3.5-2 Ma)

更新世の終わり2万年前頃には、ほぼ現在に近い地形であるが、最終氷期最盛期のため海面が低下し日本海と外洋を繋ぐ海峡は非常に狭かった。(0.02Ma)

地質学的視点で、日本列島というものがどのように形成されてきたのか解説する。かつて日本付近はユーラシア大陸の端で、古生代には大陸から運ばれてきた堆積していた(現在の北陸北部、岐阜県飛騨地方、山陰北部など)。そこへ、はるか沖合で海洋プレートの上に堆積した珊瑚放散虫などからなる岩石石灰岩チャート)が移動してきて、それが海溝で潜り込むときに、陸からの堆積物と混合しながらアジア大陸のプレートに押しつけられて加わった(付加)。この付加が断続的に現在まで続いたため、日本列島は日本海側が古く太平洋側に行くほど新しい岩盤でできている(現在の日本列島は、主に付加体と呼ばれる海洋でできた堆積物からなっている)。

このようなメカニズムで大陸側プレートに海洋プレートが潜り込む中で、主にジュラ紀 - 白亜紀に付加した岩盤を骨格に、元からあった4 - 5億年前のアジア大陸縁辺の岩盤(イザナギプレートなど)と、運ばれてきた古いプレートの破片などを巻き込みながら、日本列島の原型が形作られた。この時点では日本はまだ列島ではなく、現在の南米のアンデス山脈のような状況だったと考えられる。

その後、中新世になると今度は日本列島が大陸から引き裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた[注釈 8]。2100万 - 1100万年前にはさらに断裂は大きくなり、西南日本長崎県対馬南西部付近を中心に時計回りに40 - 50度回転し、同時に東北日本は北海道知床半島沖付近を中心に、こちらは反時計回りに40 - 50度回転したとされる。これにより今の日本列島の関東以北は南北に、中部以西は東西に延びる形になった。いわゆる「観音開きモデル説」である。そして、およそ1500万年前には日本海となる大きな窪みが形成され、海が侵入してきて、現在の日本海の大きさまで拡大した[注釈 9]

1600万年前から1100万年前までは、西南日本(今の中部地方以西)のかなり広い範囲は陸地であった。東北日本(今の東北地方)は、広く海に覆われ、多島海の状況であった。その後東北日本は、太平洋プレートなどによる東西からの圧縮により隆起して陸地となり、現在の奥羽山脈・出羽丘陵が形成されるにいたった[8]

北海道はもともと東北日本の続き(今の西北海道)と樺太から続く南北性の地塊(中央北海道)および千島弧(東北海道)という三つの地塊が接合して形成されたものである。南西諸島は日本島弧の中でも最も新しく成立した島弧で、600万年前以前は大陸の一部であったが、大陸の縁で開裂が起こり完全に大陸から切り離され、サンゴ礁を持った島弧となったのは150万年前以降である[9]

西南日本と東北日本の間は浅い海であったが、この時代以降の堆積物火山噴出物で次第に満たされながら、東北日本が東から圧縮されることで隆起し中央高地日本アルプスとなった。西南日本と東北日本の間の新しい地層をフォッサマグナといい、西縁は糸魚川静岡構造線、東縁は新発田小出構造線柏崎千葉構造線で、この構造線の両側では全く異なる時代の地層が接している。

こうして、不完全ながらも今日の弧状列島の形として現れたのは、第三紀鮮新世の初め頃であった。その後も、特に氷期の時などには海水準が低下するなどして、大陸と陸続きになることがしばしばあった。例えば、間宮海峡は浅いため、外満洲・樺太・北海道はしばしば陸橋で連絡があった。津軽・対馬両海峡は130 - 140メートルと深いため、陸橋になった時期は限られていた。また、南西諸島ではトカラ海峡(鹿児島以南)、ケラマ海峡(沖縄島以南)のともに1000メートルを超す水深であり、第四紀後半に陸橋になった可能性はまず考えられない。南西諸島の生物相が固有種が多く、種の数が少ないなどの離島の特徴を示すことは、大陸から離れた時代がきわめて古いためと考えられている。陸橋問題では、津軽海峡は鮮新世末まで開いており、対馬海峡は日本海塊開裂時代には開いていたが、その後の中新世末から鮮新世には閉じたと考えられている[10]


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