日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ1500万年前で、現在のテクトニクスは約300万年前にほぼ出来上がり、更新世の氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こったと考えられている。
地質学的には、ユーラシアプレートの東端および北アメリカプレートの南西端に位置する。 これら2つの大陸プレートの下に太平洋プレートとフィリピン海プレートの2つの海洋プレートが沈み込む運動によって、大陸から切り離された弧状列島になったと考えられている。
しかしながら、従来の学説では氷期に日本列島はユーラシア大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきたとされてきたが[7]、近年の研究では氷期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。また舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言[8]も新聞で報道されている。しかし、この時期には船の遺物は発見されていないため少数の意見である。
一方、約4万年前の後期旧石器時代早期から黒曜石の採掘が続けられた栃木県の高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。さらに黒曜石が見つかった。 日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(間宮・宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。 最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸峡を渡ってくることが出来たので、それらの混合相となった。 ナウマンゾウは約35万年前に日本列島に現れて約1万7000年前に絶滅している[9]。長野県上水内郡信濃町の野尻湖遺跡群の約4万年前の地層(日本考古学用語では「土層」とも言う)からナウマンゾウの骨製品がまとまって発見されている[注 3]。瀬戸内海各地で海底にあるナウマンゾウの化石が、網にかかって漁師等に引き上げられている事例も見られる。 更新世も中頃を過ぎると寒冷な氷期と温暖な間氷期が約10万年単位で繰り返すようになり、植生の変化もそれに対応するように規則的な変化を繰り返すようになった。 氷期を約6万年前を境に前半と後半に分けると、前半は温帯性の針葉樹によって占められる針葉樹林の時代であり、後半は約5万年前と約2万年前の亜寒帯の針葉樹が繁栄する時期とそれ以外のコナラ属が繁栄する時代からなる。そして、最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で、それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に拡がっていった。暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。 一方、姶良Tn火山灰(AT火山灰)は、日本列島全体を覆うほどの姶良カルデラの巨大噴火によってもたらされ、九州から東北日本までの植生に大きな影響を与えた。気候が寒冷化に向かう過程で噴火が起こり、針葉樹林化を速めた。このことは、動物群や人間社会にも影響を及ぼした。たとえば、それまでは全国均一的な石器文化を保持していたものが、地域的な特色のある石器文化圏、つまり、西日本と東日本というような石器文化圏成立に影響したとの可能性を考えることができる。 日本列島において氷期から間氷期への急激な変化は、更新世から完新世への変化も急激であり、気候変化[注 4]、海面変化、植生を含めた生態系の変化も急激であった。後期旧石器時代はコナラ、クリ、クヌギを主体とした落葉広葉樹林が西日本から東日本を覆うようになった[10]。
動物相
植生
石器
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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