日本刀
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日本国内で「日本刀」という用語が広まったのは、海外の文化が流入した幕末以降のこととされ、それ以前は単に「刀(かたな)」や「剣(つるぎ・けん)」と呼んだり、「打刀」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった。また、木刀竹刀模擬刀に対置して「真剣」と呼ばれることもある。

日本刀はアジアでは「倭刀」という呼称があったが、現地で日本刀に模して作成されたものを指す事も多い。現代の漢文圏では「倭」を忌んで「和刀」と表記することもある。

欧米では「Japanese sword」や「katana」などと呼ばれる。日本美術刀剣保存協会の刀剣博物館の公式訳は「The Japanese Sword Museum」である。象徴的な意味合いとして「Samurai sword」という呼び方もあるが、現代では日本刀を模した刀(模造刀[注 3] に対して使われることが多い[17]
歴史

政治・経済・文化・貿易など、さまざまな歴史的要因により、日本刀は変貌し続けてきたとされている。
上古から彎刀の出現まで大刀(たち)を佩用する聖徳太子。黒漆塗の鞘に山形金物と長金具が付いた大刀を帯取と佩緒で下げている。
弥生時代.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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(2023年10月)
漢代環首刀

弥生時代前期には青銅製の刀剣類が確認される。日本最古の王墓といわれる福岡県吉武高木遺跡からは銅剣が多数発掘されている。

弥生時代後期から環首刀と呼ばれる大陸軍刀として使用された長い直刀が流入し、技術面で当時の日本の刀に影響を与えたとされている[18]

3世紀中頃の古墳である同県の祇園山古墳から製の剣が発見され、鉄製の刀剣類の生産が国内で始まったと考えられる。『古事記』に登場する草那藝之大刀も同時期のものではないかと言われている。
古墳時代?奈良時代古墳時代後期の装飾付大刀メトロポリタン美術館所蔵)。最上段は圭頭大刀、中段2振は頭椎大刀、最下段は双龍環頭大刀。

古墳時代には、埼玉県稲荷山古墳島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳からは鉄剣大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル大王(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。

また日本各地より出土している蛇行剣という蛇行した刀身を持つ剣や、石上神宮所蔵の七支刀など独特な作りを持つ刀剣がこの頃に多数存在したとされている。

この時代の刀剣の多くは朽損しているが、古墳時代後期(6世紀)以降の直刀は「装飾付大刀」とも呼ばれ、金装・銀装・金銅装の煌びやかな装具を装着し、形態的にも様々なバリエーションのものが出現した。島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は保存状態が極めて良い。

この頃、馬匹生産が盛んとなった東日本では、馬上から用いることに適した山刀に近い刀が生まれた(片刃)。柄の形の特徴から蕨手刀と呼ばれる。当初は直刀に近く刃は反っていなかったが、この柄を片手で握り振り付けると、刃が相手へ僅かに斜めに向かう特徴を持ち、斬りつける際に高い切断力を持った。

また東北地方に住んでいた蝦夷と共にこの蕨手刀が伝わり、彼らの優れた弓術と組み合わされ、独特の騎馬戦法が生まれた。さらに彼らの改良により(柄の角度、湾刀化、長刀化など)、威力が増した。

7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんかざりのからたち/きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている。正倉院では唐様大刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りなどの国産の直登、蕨手刀なども現存している。
平安時代毛抜形太刀(伊勢神宮所蔵、重要文化財)

古代には直刀だった日本の刀剣は、平安時代直前頃より、次第に湾刀への改良が始まり、より威力の高い刀へ進化していったと考えられている。

平安時代初期の刀剣は遺品にこそ乏しいが、坂上田村麻呂の儀仗用とされる鞍馬寺の「黒漆剣(こくしつけん)」や、兵仗用とされる清水寺 (加東市)の「騒速(そはや)」が現存している。なお、この清水寺の大刀は特徴として鎬筋がやや中央に寄り、刀身全体に浅い反りがあリ、奈良時代末期から平安時代中期にかけて兵仗が直刀から湾刀へと変遷する過程の初期のものとも考えられる[19]

古代には直刀だった日本の刀剣は、蝦夷・俘囚による改良を取り込み、威力を増す進化を続けた[20]。すなわち、片刃で柄に角度をつけた蕨手刀(当初はほぼ直刀だったが蝦夷により反りを持つ彎曲刀へ改良された)、柄に透かしをつけて斬撃の衝撃を緩めた毛抜形蕨手刀、柄の装飾を排した毛抜形刀、長大化させた毛抜形太刀を経て、次第に反りも増し、日本刀へ変化していったと考えられている[20]

長大化に加え、反りがつくことで振り下ろして切ると切断力が大きい武器となり[20]、騎馬戦で威力を持った[21]。これにより、平安中期以降には湾刀である太刀へ移行したとみられている[5]

また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。

平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役後三年の役の頃から武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。

良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国大和国などに刀工の各流派が現れてきた。源頼光大江山酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。


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