日本侠客伝シリーズ
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岡田は高倉の育ての親であった[29][30][31]。一部の文献に「高倉の主役抜擢は俊藤」と書かれた物があるがそれは考えにくい[注 1]。高倉は岡田の企画したギャング路線で売り出し中だったとはいえ[28]、これといった大ヒット作がなく、いまひとつパッとせず[36]。またギャング路線は関西ではさほどヒットしておらず[28]、東撮育ちで京撮に馴染みのない高倉に京撮の活動屋たちは、錦之助に出演を断られた無念さが膨れ上がっていた[28]。いまでこそ高倉は仁侠映画の大スターであるが、東撮育ちでギャング映画や美空ひばりの相手役の多かった高倉は、日本刀を持って切り込む姿が、まるで野球選手バットを振り回しているようでマキノ監督も俊藤浩滋も頭を抱えた[16][28]。これを受け岡田と俊藤は「やはり錦之助さんに一枚かんでもらおう。高倉では任侠の雰囲気が出ない」と笠原に錦之助が脇で出るシーンの書き足しを頼んだ[16]。当然錦之助は出演を拒否したが「岡田さんが東撮から京都に戻ったら、岡田さんの企画する映画に必ず出演させてほしい」と書いた錦之助の古証文を持ち出し苦しい説得をした[16][37]。このため第一作のみ錦之助が出演している。高倉がまだ主演級でないため、錦之助が主演のように書かれるケースもあるが、錦之助の撮影は僅か2日間であった[16]。やくざ映画を厭がっていた錦之助だが、いったん出ると決まってからは、徹底して役柄を研究して撮影に挑んだ[38]。錦之助が実に秀逸な残侠像を見せて、以来、ゲストスターの途中殴り込みがこの種の映画のパターンとなった[38]。死を覚悟で仇の組に乗り込んで切りまくる錦之助の芝居は見事なやくざの芝居だったが、俊藤らが懸念していた高倉の芝居に新しい若い観客が予想外の反応を見せた[16]。兵隊帰りの深川木場とび職人を演じた高倉の、様式美よりもリアリスティックで粗削りの侠客の姿に圧倒されたのである[16]。結果、映画は大ヒットし、それまで人気が燻っていた高倉は一気に東映の大看板になった[26]。高倉は三白眼が邪魔になって、もうひとつ人気が伸びなかったが、やくざに扮して初めてその処を得たのである[38]。目千両というが、目つきの悪さで一代の財を築いたのは、高倉を措いてほかにない[38]。錦之助の任侠映画出演は本作一本のみ[38]。"この後岡田が京撮のリストラと仁侠路線を強化したことで、岡田が仁侠路線のエースコンビと期待していた沢島と錦之助は仁侠映画を嫌い、この後東映を退社した[1][26]。京撮内には岡田や俊藤に反撥する者も多かった[10][17][39]。俊藤は「錦之助が『日本侠客伝』に主演していれば、彼の映画スターとしての道は全く違っていたんじゃないかと思えて残念なんです」などと述べている[40][41]。「日本侠客伝シリーズ」は「博徒シリーズ」と共に二大シリーズとして、出発したばかりの任侠路線を支えることになった[17]。また高倉の台頭により看板スターは時代劇黄金期から一新され、鶴田浩二・高倉健を頂点に、その脇役から藤純子若山富三郎菅原文太らが次々と一本立ちし、再び磐石のスター・ローテーションが形成されることになった[42][43][44][45]
後続作品への影響

1960年代は製作会社が自社の映画を直営館、系列館に流すブロック・ブッキング・システム[46]によって毎週二作を送り出していた時代[47]。こうした厳しく量産を強いられる状況に対応するには、映画一本ごとの企画性や質よりも、量産作品全般に流用できるフォーマットの創出が重要な鍵となる[47]。『日本侠客伝』第一作で岡田と俊藤は「主人公とそれを支える流れ者」という形に眼をつけた[48]。これなら男同士の情念も描けるし、同時期に始まった鶴田浩二主演の『博徒シリーズ』には無い形なので「独自のカラーが出せる、毎回これでいこうや」となって、毎回ゲストを出しては途中で殺すパターンが出来上がった[48]。このパターンを発展したのが1965年から始まる『昭和残侠伝シリーズ』で、流れ者の殴り込みを一本立ちさせたのが1966年から始まる『兄弟仁義』シリーズとなる[48]。『昭和残侠伝シリーズ』は「東撮でも高倉健のシリーズを」となって始まった物だが中身は『日本侠客伝』の時代を終戦直後に変更しただけで、中村錦之助の役が傘を持った池部良に変わっただけであった[48]。このように『日本侠客伝シリーズ』が多様な類型を派生して、任侠映画の最盛期を制覇することになった[47]

本作は1960年代の任侠映画に留まらず、1970年代以降の東映作品に於いてもキーとなる。岡田の指示により[49]、本作から日下部五朗が俊藤に付いて任侠映画のプロデューサーとなった[50]。また天尾完次が岡田直轄のプロデューサーとして、岡田の指揮下でエログロ、東映ポルノ、アクション路線を押し進める[50][51][52]。また宣伝部に在籍して脚本を書いていた笠原和夫を本格的にシナリオライターに引っ張ってきたのは岡田だった[53]。笠原は『人生劇場 新飛車角』の脚本を岡田に書かされたことでやくざ映画の脚本家になっていく[54]。抜擢したこの『日本侠客伝』以降、岡田が笠原を気に入り、ホン読みで岡田が笠原の脚本を「いいよ、これで行こう!」と言ってくれるので、みんな黙り反対する者はいなくなったという[55]。岡田が京撮所長になって以降ダメだと言われたのは『十一人の賊軍』一本だけと話している(映画化されず)[55]


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