1960年代は製作会社が自社の映画を直営館、系列館に流すブロック・ブッキング・システム[46]によって毎週二作を送り出していた時代[47]。こうした厳しく量産を強いられる状況に対応するには、映画一本ごとの企画性や質よりも、量産作品全般に流用できるフォーマットの創出が重要な鍵となる[47]。『日本侠客伝』第一作で岡田と俊藤は「主人公とそれを支える流れ者」という形に眼をつけた[48]。これなら男同士の情念も描けるし、同時期に始まった鶴田浩二主演の『博徒シリーズ』には無い形なので「独自のカラーが出せる、毎回これでいこうや」となって、毎回ゲストを出しては途中で殺すパターンが出来上がった[48]。このパターンを発展したのが1965年から始まる『昭和残侠伝シリーズ』で、流れ者の殴り込みを一本立ちさせたのが1966年から始まる『兄弟仁義』シリーズとなる[48]。『昭和残侠伝シリーズ』は「東撮でも高倉健のシリーズを」となって始まった物だが中身は『日本侠客伝』の時代を終戦直後に変更しただけで、中村錦之助の役が傘を持った池部良に変わっただけであった[48]。このように『日本侠客伝シリーズ』が多様な類型を派生して、任侠映画の最盛期を制覇することになった[47]。
本作は1960年代の任侠映画に留まらず、1970年代以降の東映作品に於いてもキーとなる。岡田の指示により[49]、本作から日下部五朗が俊藤に付いて任侠映画のプロデューサーとなった[50]。また天尾完次が岡田直轄のプロデューサーとして、岡田の指揮下でエログロ、東映ポルノ、アクション路線を押し進める[50][51][52]。また宣伝部に在籍して脚本を書いていた笠原和夫を本格的にシナリオライターに引っ張ってきたのは岡田だった[53]。笠原は『人生劇場 新飛車角』の脚本を岡田に書かされたことでやくざ映画の脚本家になっていく[54]。抜擢したこの『日本侠客伝』以降、岡田が笠原を気に入り、ホン読みで岡田が笠原の脚本を「いいよ、これで行こう!」と言ってくれるので、みんな黙り反対する者はいなくなったという[55]。岡田が京撮所長になって以降ダメだと言われたのは『十一人の賊軍』一本だけと話している(映画化されず)[55]。