日本会議
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1970年11月3日、椛島有三百地章など生長の家学生会全国総連合(生学連)のOBは、政治団体「日本青年協議会」を橿原神宮で結成した[24][25][26][27]。「天皇中心の新体制国家の形成」「明治憲法への原点回帰」などが目的として掲げられた[28][29]。主たる役員は以下のとおり。委員長:衛藤晟一、書記長:椛島有三、政策部長:伊藤哲夫、編集局長:松村俊明[25][28]。同年11月25日、三島由紀夫が自衛隊にクーデターを呼びかけ、「楯の会」メンバーの森田必勝とともに割腹自殺をする事件が発生。「結成直後の義挙・自決だったので、日本青年協議会に魂を入れていただいたというのが、当時の私たちの率直な思いであった」と椛島はのちに述べている。三島事件をきっかけに70年安保闘争終結後の「停滞期」にあった民族派の運動は息を吹き返す[30][31]。生学連委員長を務めていた高橋史朗が1970年代半ばに日本青年協議会に参加した[24][29][32][33]

1974年11月、日本青年協議会は、教科書を作成し、教育理論家や活動家の拠点校を増やすことなどを目的とする機関「日本教育研究所」を設立。高橋史朗が事務局長に就いた[29]

同年4月2日、臨済宗円覚寺派管長の朝比奈宗源神道仏教系の新宗教に呼びかけ、神社本庁生長の家などが中心となり「日本を守る会」を結成した[22][23]。事務所は明治神宮会館に設置された[34]。様々な保守的な政治運動を行った[35]

1977年、生長の家を代表して「日本を守る会」の事務局を取り仕切っていた村上正邦は「日本青年協議会」を事務局に参加させた[29]

1978年7月18日、元最高裁判所長官石田和外らの呼びかけによって財界人・学者中心で、元号法制定を目的に「元号法制化実現国民会議」が結成された[36][37]。事務局長は椛島有三[38]

1979年6月12日、元号法が公布施行される。これを受けて明治神宮権宮司の副島廣之黛敏郎らは憲法改正運動に照準を変え、1981年10月27日、元号法制化実現国民会議を改組する形で「日本を守る国民会議」を設立した[37][39]

1996年2月26日、法制審議会は、選択的夫婦別氏の実現を含む「民法の一部を改正する法律案要綱」を法務大臣に答申した[40]。危機感を抱いた百地章、高橋史朗らは3月1日に「夫婦別姓に反対し家族の絆を守る国民委員会」を結成[41][42][43][44]。組織的な反対運動を開始し、翌1997年5月には夫婦別姓反対の国会陳情活動を実施した[41][37]

1997年3月、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の両役員会で両団体の発展的統合が決議された[37]。新組織「日本会議」の会長には黛敏郎が内定していたが、黛は4月10日に病没した。

同年5月29日、超党派の議員連盟として「日本会議国会議員懇談会」が設立された。会長は島村宜伸が就き、幹事長は平沼赳夫が就いた。事務局長には、村上正邦の元公設秘書で、生長の家出身の小山孝雄が就任した[45]

同年5月30日、日本会議の設立大会がホテルニューオータニで開催された[1][46]。設立時の主たる役員は以下のとおり。会長:塚本幸一。副会長:安西愛子石井公一郎岡本健治小田村四郎小堀桂一郎[46]。代表委員:石原慎太郎三波春夫加藤芳郎春風亭柳昇、外山勝志ほか[45][1]。理事長:田中安比呂[1]。事務総長:椛島有三[46]

同年6月、日本会議は時局問題や政策課題を検討する「政策委員会」を組織内に設置[37]大原康男、伊藤哲夫、百地章、高橋史朗らが同委員に就任し、大原が代表を務めた[47][48][49][50]。日本会議の事務局は椛島が会長として率いる日本青年協議会が実質的に担っている[51][52]

1998年6月10日、会長の塚本が在任中に死去。会長職は以後2年間、空席のままだった[53]

2000年4月4日、日本会議は新しい歴史教科書をつくる会と共同して、右派組織を結集し、「教科書改善連絡協議会」(略称:改善協)を設立。会長には三浦朱門、副会長には亀井正夫石井公一郎が就任した。改善協は教育委員会や地方議会に圧力をかける運動の主要な担い手となった[54][55]


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