近年、埴原和郎や尾本恵市などが、W・W・ハウエルズの分類による「モンゴロイドの2型」を用いている[42]。すなわち「古モンゴロイド」と、寒冷に適応した「新モンゴロイド」である[42]。「初め日本列島に渡来した後期旧石器時代人ないし縄文人は古モンゴロイド」であり、「縄文時代終末から弥生時代に渡来した弥生人を新モンゴロイド」と呼ぶ[42]。弥生人は主に米作を伝え、それに従事していたとされる。米作の普及が遅れ「新モンゴロイドの影響が及びにくかったアイヌや東北、山陰、九州および南西諸島の住民は、古モンゴロイド的特徴を今もなお残している」と解されている[43]。縄文人・アイヌは東ユーラシア系統から少なくとも30000年前に分岐しており恐らくモンゴロイドの成立前であるためそもそもモンゴロイドではない可能性もある[4]。
かつては約3万年前に大陸から渡来して先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により置換説は否定され、混血説が主流となっている[44]。
民族としての形成「民族」および「大和民族」を参照
以下、民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しが進んでおり、先史時代の日本人の形成については流動的な状況にあることに留意されたい。 石器時代の日本列島には下記の人々が活動した記録がある。 従来までの説としては、縄文時代から始まる縄文文化を持ち狩猟採集生活をしていた先住民の縄文人に続き、半島からの渡来してきた弥生文化を持つ弥生人が稲作をもたらすなどしながら混血していったという1991年に東大名誉教授だった埴原和郎が唱えた「二重構造モデル」が長らく定説であった。しかし最新のゲノム分析からこの説は覆えりつつある。 金沢大、鳥取大、アイルランド・ダブリン大などの教授、研究員らで構成される国際共同研究グループの最新のゲノム解析では、旧石器時代に大陸から渡ってきた千人ほどの小さな集団が日本列島に適応して縄文人となり、弥生時代までに北東アジアを起源とする弥生人が渡来し、続いて古墳時代までに東アジアを起源とする古墳人が渡来し、以後、混血融和しながら現在の日本人を形成していったとする「三重構造モデル」である[45]。考古遺跡から発見されている人骨から採取された『縄文人』『弥生人』『古墳人』のDNAは『現代日本人』に直接受け継がれている[45]。現代日本人では古墳人のゲノムが7割近くを占める[45]。縄文人のゲノムは本土日本人、琉球列島集団、現代のアイヌのゲノムのそれぞれ約1割、3割、 7割を構成しているとされる[46]。 今後の研究次第では更に「三重構造以上」になる可能性もある[45]。1970年に沖縄県で日本では少ない旧石器時代の人骨人が複数発見され、出土した場所の地名から港川人と名付けられたが、その一つのミトコンドリアDNAを調べたところ、分析した現代日本人約2千人の中に同じ遺伝子の特徴を受け継ぐ直系の子孫はいなかったものの、現代日本人・弥生人・縄文人に多く見られるタイプの祖先型の遺伝子を持つことが分かったという[47]。これは港川人の集団が日本人の遠い祖先にあたる可能性を示唆しており[47]、東南アジアのマニ族からは、縄文系日本人と近縁であることを示す遺伝子が検出された[48]。 倭、倭人に関する記載は、もっとも古い文献では紀元前2世紀に中国の『山海経』と『論衡』にて登場するが、これらの記載は中国南東部の倭人のことを指しているとする説と日本列島の倭人のことを指しているとする説[49]があり、日本列島住民との関わりは不明である[50]。
石器時代の日本人
種子島の横峯遺跡の約3万年以上前の土層(地層)からは、日本国内最古の調理場跡が発見されている。なお、南九州の土層は火山灰による時代の確認が容易である。
愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨が発掘されており、この地域が日本人のルーツといわれている。
縄文人と弥生人と古墳人
倭人「倭人」を参照