日本人
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

仮に東アジアの六集団(本土日本人、アイヌ人、沖縄人、韓国人、北方中国人[注 12]、南方中国人[注 13])がすべて三つの集団の混血からなると仮定してゲノムを分析すると、第一段階の集団の遺伝子はアイヌの一部が100%を受け継いでおり、沖縄人は20%弱、本土日本人もそれより低い確率で受け継いでいるが、その他の三集団ではほとんど見られない。第二段階の集団の遺伝子は、沖縄人が80%以上、本土日本人が60%以上、韓国人は30%前後、北方中国人が10%前後受け継いでいるが、南方中国人はほとんど持っていない。第三段階の集団の遺伝子は南方中国人のほぼ100%を占め、北方中国人の90%前後、韓国人の70%前後もこの系統である。本土日本人においては第一段階の集団よりも多いが、第二段階の集団よりは少ない。アイヌにもある程度影響のある個体が存在するが、沖縄人への影響はほんの一部に過ぎない[172]。ただし、これらの推計は限りなく単純化されたもので、必ずしもそのまま受け取れるものではないことに注意する必要がある[173]
都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造

Watabe et al. (2020)[174]は、47都道府県の日本人約11,000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを解析し、都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。47都道府県を対象に主成分分析では、第1主成分は沖縄県と各都道府県の遺伝的距離を反映しており、沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県であった。第2主成分は都道府県の緯度および経度と有意な相関が見られた。また、近畿地方や四国地方は中国・北京の漢民族に遺伝的に近いこともわかった。この結果は、先住の縄文人と大陸から来た弥生人との混血度合の差異と地理的位置関係が本土日本人の遺伝的地域差を形成した主要因であることを示している。大陸から地理的に近い九州北部よりも、近畿地方や四国地方の人々に弥生人の遺伝的構成成分がより多く残っていることが示唆された。
その他の分子人類学的指標による諸説

集団遺伝学者の根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993年、京都)にて、(アイヌを含む北海道から沖縄県までの)日本人の起源は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはわずかな影響しか与えていないという研究結果を出している[175][176]。分子人類学者の尾本恵市は埴原の原日本人(アイヌを含む縄文人)の南方起源説を批判しており、1995年に出した系統図では、日本人はチベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌとは異なるとしており、1997年に出した系統図では、本州日本人はアイヌや琉球諸島、チベット、一部の台湾原住民と近く、韓国人、中国人とは離れているという結果を出している[177][178][179]。松本秀雄はGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱している[180]。また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの研究結果が発表されている(台湾50、韓国70、日本80)[181]

京都大学ウイルス研究所日沼頼夫はALT(成人T細胞白血病)レトロウイルス (HTLV) のキャリアが多い地域を縄文系の人が色濃く残存する地域と考えた[182]。ATLのウイルスキャリアは日本人に多数存在するが、東アジアの周辺諸国ではまったく見出されず、アメリカ先住民やアフリカ、ニューギニア先住民などで多い。日本国内の分布に目を転じると、九州や沖縄、アイヌに特に高頻度で見られ、四国南部、紀伊半島の南部、東北地方の太平洋側、隠岐、五島列島などの僻地や離島に多いことが判明している。九州、四国、東北の各地方におけるATLの好発地域を詳細に検討すると、周囲から隔絶され交通の不便だった小集落でキャリアは高率に温存されている。HTLVはかつて日本列島のみならず東アジア大陸部にも広く分布していたが、激しい淘汰が繰り返されて大陸部では消滅し、弥生時代になってウイルス非キャリアの大陸集団が日本列島中央部に多数移住してくると、列島中央部でウイルスが薄まっていったが、列島両端や僻地には縄文系のキャリア集団が色濃く残ったものと考えられている。

最近の研究から、東アジア人(モンゴロイド)を特徴付ける遺伝子があることがわかった[183][184]

Chauber&Driem (2020)は、縄文時代(紀元前6000年頃に)日本列島には現代のオロチョン人に近いアルタイ的民族が北東アジアから移住し、陶磁器文化に代表される初期の縄文文化を導入したと推定している。 さらに、弥生人が到着する前に、オーストロネシア人が日本最南端(特に先島)にいた可能性があると述べている[185]
形質人類学、考古学からの接近方法

日本人の形成過程を分析する形質人類学からの接近方法には原人や古人骨などの形態解析、石器の分布分析などが古典的な方法としてある[186]。形質人類学的な手法は、「ヒト集団の系統関係の把握」という用途に用いるにはかなり限界があるとの指摘が聞かれてきたところであり、この用途に限って言えば、完全に主役の座を分子人類学に譲り渡した感が強い。もっとも、遺跡発掘骨の年代推定は、発掘物のAMS放射性炭素年代測定法によりかなり正確に推定できる利点がある。「港川人」および「日本列島の旧石器時代」を参照

東大人類学教室の長谷部言人鈴木尚は豊富な発掘調査をもとに、日本人が時代を通じて変化してきたこと、明治以降の例でも分かるように、混血等がなくとも急激に形質が変化しうることを示し、一見、形質が大いに異なる縄文人と弥生人の間でも、実は連続していて、外部からの大きな遺伝子の流入を仮定する必要はないと主張し、1980年代半ばまで有力な説であった(これは「変形説」と呼ばれる)。

それに対して、現代日本人は日本の先住民族に置き換わって成立したという「置換説」も、幕末、明治のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトエドワード・S・モースの考察に早くから見られ、記紀神話などを参考に、在来の原住民を天孫族が征服して日本人が形成されたという論は盛んであった。エルヴィン・フォン・ベルツは日本人でも長州藩出身と薩摩藩出身では顔に形質的な違いがあるとして「混血説」を提唱した。京都大学清野謙次の論などが「混血説」の代表である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:295 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef