日本丸_(初代)
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日本丸
日本丸メモリアルパークで総帆展帆した日本丸
基本情報
船種練習帆船
船籍 日本
所有者文部省運輸省
運用者航海練習所→航海訓練所
建造所川崎造船所神戸工場
姉妹船初代海王丸
経歴
発注1928年
進水1930年1月27日
竣工1930年3月31日
引退1984年9月16日
現況日本丸メモリアルパークで保存
要目
総トン数2278トン
全長97 m
幅13 m
喫水5.3 m
機関方式ディーゼル
主機関池貝鉄工 6SD40型[1]
推進器2基
出力441 kW (600 PS)
搭載人員138名
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日本丸(にっぽんまる、英語: Nippon Maru)は、日本航海練習船で4檣(しょう)バーク型の大型練習帆船

1930年昭和5年)1月27日兵庫県神戸市川崎造船所で進水。その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれていた。日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年(昭和59年)に引退。航海練習船としての役割は日本丸II世が引き継いだ。姉妹船として海王丸がある。2017年平成29年)9月に国の重要文化財に指定された[2][3][4][5]

現在、横浜市西区みなとみらいの「日本丸メモリアルパーク」内の展示ドック(旧横浜船渠第一号船渠〈ドック〉、国の重要文化財)で展示・公開されている。
概要

昭和初期において日本の商船教育機関には、官立商船学校が2校(東京高等商船学校と神戸高等商船学校)、公立商船学校が11校あった[6]。このうち公立商船学校で練習船を保有していたのは5校のみで、しかも小型の木造船だったため練習船の海難事故も多かった[6]。そのため、1925年(大正14年)から文部省内で大型練習船の建造が検討されたが、第一次世界大戦後の不況のため実現に至らなかった[7]

1927年昭和2年)3月9日、福岡からマーシャル諸島に向かっていた鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」が伊豆下田港への寄港後、千葉県犬吠埼沖で遭難し、実習生30名、乗組員23名の合わせて53名全員が犠牲となり社会問題となった[6][7]。この事故が契機となり、1927年(昭和2年)の第54回帝国議会に2隻の帆船練習船建造費1,874,600円が計上され、解散総選挙後、1928年(昭和3年)の第55帝国議会で予算が成立した[6][7]

設計は、当時の日本に西洋式帆船の技術的な蓄積が無かったため、スコットランドのラメージ・エンド・ファーガソン(英語版)、建造は神戸川崎造船所が担当した[8]1930年(昭和5年)1月27日に進水した第1船は「日本丸」、同年2月14日に進水した第2船は「海王丸」と名付けられた。同年3月31日には艤装を終え、文部省に引き渡された。所管は文部省航海練習所[9]。同年にはミクロネシアポナペ島へ初の遠洋航海を行った。

太平洋戦争下、1943年(昭和18年)に他の練習船とともに京浜地区の造船所で帆装艤装が撤去され、瀬戸内海航路の緊急物資輸送(若松港から尼崎港への石炭輸送)に従事し、一回に650トン程度の石炭を輸送した[7]

戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理下に置かれ、SCJAP(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)ナンバーが付され、指令に基づく航海を通して訓練航海が実施されることになった[7]。まず帰還輸送航海(復員船)に実習生も乗り込む形で従事することになり、1945年(昭和20年)12月の上海からの帰還輸送を皮切りに、1949年(昭和24年)9月までに29航海が行われ、帰還輸送者数25,423名を輸送した[7]。その後、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争では米軍人や韓国人避難民の輸送の航海指示を受け、実習生を下船させた状態で特殊航海が3回行われた[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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