日本万国博覧会
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^ a b 出典の外国数に開催国の日本を上乗せした数。
^ 千里丘陵吹田市のほか豊中市茨木市箕面市にまたがる丘陵地であるが、出典記載のとおり開催地は吹田市の丘陵地域にあたる。万博記念公園の項目も参照。
^ 面積の内訳は次のとおり[13]。会場内部分

シンボルゾーン(お祭り広場、万国博美術館、万国博ホール、水上ステージ、エキスポタワー広場、水中レストランなど) - 118,000 m2

展示地区(パビリオン) - 486,000 m2

広場歩道 - 362,000 m2

内環状道路 - 93,000 m2

レクリエーション・ゾーン - 390,000 m2

保存緑地 - 61,000 m2

池 - 101,000 m2

その他 - 46,000 m2
場周部分

駐車場 - 570,000 m2

出入口 - 171,000 m2

レクリエーション・ゾーン - 86,000 m2

保存緑地 - 160,000 m2

一般道路 - 173,000 m2

中央環状道路 - 160,000 m2

処理場・倉庫 - 36,000 m2

その他 - 287,000 m2

^ 2010年の上海万博に抜かれるまで、長らく万博史上最高であった[14]
^ これも上海万博に抜かれるまで1日最高入場数の万博記録であった。
^ 事務総長からの更迭は、新井がパリで6月終わり頃に開かれたBIE(博覧会国際事務局)の会議に出席する海外への出張中に行われたものであった(正式には翌7月17日開催の博覧会協会の常任理事会において辞任[25]。なお、同日に鈴木俊一が後任の事務総長に就任。)。背景に「財界総理」とまで呼ばれた元経団連会長の石坂と意見が合わなくなった不仲があったかもしれないことを示唆する向きがある[26][27]
^ 鈴木と丹下のつながりは新東京都庁舎建設にも続いた。
^ 大高は他に日清カップヌードルのロゴや初代「のりたま」のパッケージデザインを手がけた。
^ マーク・カラーの色相・明度・彩度を表すマンセル記号(修正マンセル値)は次のとおり[37][38]。青 5.5PB 2.9/15.0赤 6.0R 4.4/16.3緑 3.0G 3.7/14.1
^ モントリオール万国博覧会(Expo 1967)における「アフリカン・プレース」(: Place of Africa)での共同館方式に倣ったもの[43]
^ 東大寺に建っていた七重塔については、東塔と西塔との間で高さが違っていたことが『東大寺要録』などの資料からうかがえるが、西塔の方の高さは約70メートルであったと推定される[66]。なお、これに対して、東塔・西塔ともに100メートル級の高さであったとする説もある[67]東大寺#伽藍も参照。
^ 当時の「1928年11月22日にパリで署名され、1948年5月10日の議定書で改正された国際博覧会に関する条約」(BIE条約、1966年改正前のもの)には、第1種一般博覧会の開催の前後間隔について、同一国での開催には15年の間隔を置かなければならないだけでなく、同じ地域(: zone)での開催には6年の間隔を置かなければならない(異なる地域間では2年以上の間隔があればよい)旨の規定があり[84][85]、これに抵触しないことを意味する。地域の区分は、参考文献にある加畑杏理論文によれば、欧州・アフリカと南北アメリカとその他の3つであり[86]、カナダは「南北アメリカ」に、日本は「その他」にそれぞれ属し、別の地域である(条約文の表記上は、欧州米州とその他の3区分であるが[85]、欧州については先の加畑杏理論文には「欧州・アフリカ」とある。なお、加畑論文の脚注で「南北アフリカ」と記されているのは誤植と考えられる。)。
^ 西山、丹下の二人は、小委員会にあたる会場基本計画原案作成委員会のチーフ・プランナーを務めた[91]
^ 法律名は「日本万国博覧会の準備及び運営のために必要な特別措置に関する法律」(昭和41年法律第105号)。
^ 身体障害者センターは日本庭園東門の最寄りに位置していた。
^ 各都道府県の万国博推進協議会がそれぞれ募集して選抜試験を実施し、合格者を万国博協会に推薦した[154]
^ 前売入場券の抽選により6000人の当選者が一般招待者として招かれたが、実際に引き換え申請のあった人数は824人にとどまった[165]
^ 式典で民間人が天皇・皇后に直接花束を手渡したのは、この時が初めてである。
^ アポストロフィーの部分を含む[166]
^ 閉会式に関する出典の『日本万国博覧会公式記録 第2巻』(1972年)の記載には、会場上空では航空自衛隊の祝賀飛行が午前11時30分から20分間行なわれ、「サヨナラ」の4文字が初秋の空にあざやかに描かれた(33頁、赤字部分は原文ママ)とあるが、当日は天気が曇り空であったために煙文字(英語版)による演出を見送って編隊隊形による航過飛行のみで行われたのが実情のようである(ブルーインパルスの項目にある閉会式での飛行についての記述を参照。航空自衛隊のホームページには3月14日の開会式で描いた煙文字については記されているが、閉会式に関しては記録がない[190]。なお、気象庁ホームページの過去の気象データ検索では、閉会式当日9時から12時にかけての大阪での雲量は「10-」である[191]。)。その後、いったんお蔵入りしたブルーインパルスによる「サヨナラ」の煙文字は、同年12月の年の瀬に行われた浜松基地での飛行納めで「サヨナラ70」としてお披露目された[166]
^ 博覧会開催期間中(開幕前日を含む)における天皇皇后の会場視察日は次のとおり。3月14日(開会式臨席)、7月13日 - 14日、16日 - 17日、8月17日 - 19日。このほか、会期前の1966年4月23日にも当時の会場予定地の視察を行った[199][200]
^ ワコール・リッカーミシン館で毎週土、日曜日に1組ずつ万国博結婚式が行われ、26週で53組の挙式があった。また、同館の名誉館長千宗室の媒酌により「お茶の結婚式」が行われた[207][208]
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