同年7月24日に、2号店である東京都渋谷区の代々木店が開店[22]。その後も日本の中心地へ集中的に出店を続け「都会で話題とする」藤田の戦略が成功した。1号店の銀座店は再開発に伴い2007年に閉店し、2号店の代々木店が、現在も営業を継続している中で最も歴史の長い店舗となった。
1号店の初代店長は山迫毅(さまさこ たけし)で、1号店開店のわずか1ヶ月前に入社してアメリカから送られてきた英語のマニュアルを自分で翻訳し、店舗の運営のしかたを学んでいったという[21]。1号店は大成功をおさめ、山迫はその功績を認められ、1号店の開店から2年後には、マクドナルド社内の人材トレーニング部署である「ハンバーガー大学」でトレーニングをする講師となった[21]。この「ハンバーガー大学」で多くの従業員が育てられ全国の店舗で活躍した。
ドムドムハンバーガーやケンタッキーフライドチキンは、マクドナルド1号店が出店した前年の1970年に一応、すでに1号店を出店してはいたが、マクドナルド1号店の登場は影響力が大きく、日本人のハンバーガーに対する価値観に多大な影響を与えた。マクドナルド1号店から日本でも(本格的に)ファストフードの文化が広がってゆくことになった[21]。 1977年以降は、アメリカに似たドライブイン型店舗、ドライブスルー併設店舗も展開するようになった[23]。 1982年8月、日本マクドナルドの開発によるPOSシステムをマクドナルドアメリカ法人が採用[23]。 1985年頃、商品購入時に2問の設問が付いたくじが配布された。全問正解でハンバーガー、ポテト、ドリンクのいずれかがもらえるというものだった。これは数年間継続され、後年は設問を一般公募した(採用者の一部は宣伝にも出演。)。くじの配布は手を変え品を変え、現在でも何らかの宣伝で使用されている。 1987年、ハンバーガーと飲料とポテトを組み合わせると、価格が安くなる「サンキューセット」を発売しヒットする。これはこの年の流行語ともなった[24]。このセットは同業他社にも影響を与え、ロッテリアがサンパチトリオを登場させたが、同社もそれに対抗し1988年には更に値下げをした「サブロクセット」として新展開した[25]。 1990年12月20日、山形県第1号店「山形やよい町店」開店、これで全都道府県進出を達成[4]。 1990年代には厨房が狭く、品揃えも限定した「ミニマック」(この名称は現在は廃止)という形態の店舗を数多く出店した。詳細は「マクドナルド#店舗の運営」を参照 1994年、「エブリディ、ロープライス」を宣伝文句に「バリューセット」を開始した。ハンバーガーセットとビッグマックセットを大幅に値下げした。その後、1995年にハンバーガーの価格を一気に値下げした。対抗上、これに追随して値下げをするファストフードチェーンが続出し、価格破壊競争が起こった。 1995年、為替が$1=80円近辺と急激な円高が発生し、牛肉やジャガイモなど原料の輸入コストが大幅に値下がり為替差益を享受できたことから、ハンバーガー単品の価格を創業当時の価格へ値下げしたが、円安推移に戻ったことなどから、後に従来の価格に戻された。 2000年(平成12年)2月14日、「平日半額キャンペーン」として、平日はハンバーガー・チーズバーガーを、同年9月よりフィレオフィッシュを値下げして販売することを開始した。それまで「若者の食事」と見做してハンバーガーを食べることに躊躇していた40代・50代が世の中の不景気で小遣いが減少する中「安くて手軽に食べられる」と、再びマクドナルドへ足を向けるようになり、2000年内でキャンペーン終了時期を明示したが、幾度か延長した。キャンペーンに成功したマクドナルドは2001年時点では「デフレ時代の勝ち組」ともてはやされるようになり、ジャスダック市場に株式上場を果たした。 同業他社の追随のみならず、2001年7月に吉野家が牛丼並盛を値下げするなど、マクドナルドの値下げは日本全国で連鎖的に価格破壊を引き起こし、平成不況下でのデフレ時代を象徴する言葉として「デフレバーガー」などの流行語が生まれた。 2001年から2002年にかけて平成不況が長引いて株価が低迷、為替も一時期 $1=140円台をつけるなど逆に円安に振れたことや客単価が下がったことから収益が悪化、2002年創業以来初の赤字決算となってしまう。加えて@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}それまで行われたことがなかった不採算店舗の閉鎖をこの時期初めて実施[要出典]するようになる。 経営収支を立て直すため、「平日半額キャンペーン」を2002年2月14日を以て終了した。ハンバーガーの通常価格を値下げするが、平日半額からは値上げとなり消費者が大きく反発して客離れを引き起こしてしまう。再度客を呼び戻そうと、同年8月にハンバーガーをさらに値下げするが、値下げに慣れてしまった消費者にはインパクトがなく、期待したようには客足が戻らなかった。 価格破壊戦争を引き起こした結果、経営悪化と「ハンバーガーは安物食品である」というイメージを消費者に与えてしまい、ブランドイメージが大きく損なわれた。藤田は戦略失敗による経営責任をとり、引退する。その後日本マクドナルドは米国マクドナルドの直轄体制となり、現在に至る。 2002年2月、会社分割による持株会社体制へ移行。商号を「日本マクドナルドホールディングス株式会社」に変更した。
拡大時代
価格破壊とデフレの勝ち組
赤字転落とブランド失墜
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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