日本マクドナルド
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毎日新聞は近年、東京で「マック」としてきたものを関西向け紙面でもそのまま用いる事例も増えている[14]。テレビ番組でも2022年9月26日放送の『情報ライブ ミヤネ屋』(日本テレビ系列)でマクドナルドとミスタードーナツ商品の値上げに関するニュースを取り上げた際に同番組の制作局である読売テレビ大阪市にあるテレビ局だったことから、見出しが「『マクド』と『ミスド』がことし2度目の値上げ」と表示されたため、同番組司会の宮根誠司が補足説明している[15]

東洋経済新報社会社四季報では「マクド」や「マクドHD」と省略している。証券会社は、アップルのMacintoshのような「マック」の略称を持つものとの混同を防ぐために「マクド」を用いることもあるが、「マクドナルド」と表示することもある[8]
歴史
創業期

藤田商店の社長(当時)藤田田がアメリカよりフランチャイズ権を獲得。マクドナルド子会社・日本マクドナルド株式会社を設立し、1971年昭和46年)7月20日に、第1号店である銀座店を銀座4丁目の「銀座三越」の店内に開店した。日本マクドナルドは米国マクドナルドと藤田商店との合弁企業であり、前者が製造と販売のマニュアル・技術の提供、後者がマネージメント提供、出資率は折半、「社長以下全社員が日本人」、ロイヤリティは双方とも1%という異例の取り決めだった[16]

同時期に大手スーパーのダイエーを経営していた中内?や東京・ひばりが丘で地域スーパーを経営していた横川家もマクドナルドのエリアフランチャイズ権を獲得すべく、交渉に乗り出していたが、ライセンス料や出資比率、主導権などの面で折り合わず、交渉はご破算となった[16][17][18][19]。後にダイエーは独自でハンバーガーチェーンの「ドムドムハンバーガー」、横川家は業態をファミリーレストランに切替え、「すかいらーく」をそれぞれ立ち上げた[16][19]

当初マクドナルド本社からは、アメリカと同様な郊外型の店舗で展開するよう指示があった(交通量の多い神奈川県茅ヶ崎市を希望したといわれる)。しかし、1号店として郊外でなく東京都中央区銀座にこだわったのは、「(開店当時は)銀座が流行の情報発信基地だ、銀座で話題になれば商売も必ず成功する」と踏んだ藤田の発案による。

1号店として三越にこだわったのも、交差点角という絶好の立地条件からであった。「ここしかない」と、藤田は三越まで直談判に行くが、当時藤田と掛け合った銀座店店長で後に社長となる岡田茂から、「三越の営業の邪魔にならぬよう、火曜日朝に開店できるなら出店してもらっても構わない」と無理難題を突き付けられる。当時、銀座三越は月曜日が定休日で、これは「日曜日の閉店時刻(18時)から火曜日の開店時刻(10時)までに、水周りを含め全ての作業を終わらせた上で開店させることができるなら、出店を許可する」といった意味であった。

作業できる時間は実質40時間しかなかったが、どうしても銀座三越にこだわった藤田は都内の空き地で銀座三越の出店予定スペースを再現し、作業員に何度も何度もシミュレーションさせた。最初は60時間近くかかったが、練度が上昇すると、39時間足らずで作業を終わらせた[注 3]

1号店として開店した店舗は、面積129平方メートルと非常に小さな持ち帰り専門店で客席がなかった。1号店は新宿の本社内に資料として再現されている。当時の物価としてハンバーガー1個の価格がやや高額ではあった。第1号店の開店初日に壁に掲げられたメニューボードには「ハンバーガー 80円、チーズバーガー 100円、ビッグマック 200円、フィレオフィッシュ 100円、マックフライ 70円。マックシェイク 120円、コーヒー 50円、コカコーラ 50円・100円、ファンタ 50円・100円」などと表示されていた[21]。 それでも、藤田の狙い通りこの店は大変な評判になり、日本各地に続々と店舗が設けられた。

1号店が銀座で開店した当時、銀座で歩行者天国が始まり毎週末に非常に大勢の人々が銀座に集まるようになり、「路上でハンバーガーを食べるのがカッコイイ」などとされ、路上で食べるスタイルがブームになった[21]。1号店は開店1年後に「1日あたりの売上が世界一」を記録[21]してアメリカにあるマクドナルドの本社も驚いた[21]

同年7月24日に、2号店である東京都渋谷区代々木店が開店[22]。その後も日本の中心地へ集中的に出店を続け「都会で話題とする」藤田の戦略が成功した。1号店の銀座店は再開発に伴い2007年に閉店し、2号店の代々木店が、現在も営業を継続している中で最も歴史の長い店舗となった。

1号店の初代店長は山迫毅(さまさこ たけし)で、1号店開店のわずか1ヶ月前に入社してアメリカから送られてきた英語のマニュアルを自分で翻訳し、店舗の運営のしかたを学んでいったという[21]。1号店は大成功をおさめ、山迫はその功績を認められ、1号店の開店から2年後には、マクドナルド社内の人材トレーニング部署である「ハンバーガー大学」でトレーニングをする講師となった[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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