日本ビクター
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蓄音機の販売から始まり、テレビビデオDVDレコーダー/プレーヤー音響機器ビデオカメラ、磁気テープ、光ディスク等の研究・開発・製造・販売を行っていた。

日本では、蓄音機から聞こえる亡き飼い主の声に耳を傾ける犬(ニッパー)を描いて “His Master's Voice” と名づけられた絵を登録商標としていた[2]。グローバルブランドの「JVC」(ジェイブイシー)というブランド名は、日本ビクター株式会社を英語に直訳した「Japan Victor Company」から来ている。「JVC」は主にビクターが商標権の都合で使用できない海外市場で用いられ、2009年からは日本市場にも導入[注 2]された。ブランドステートメントを「The Perfect Experience」としていた[3]

1980年代まで海外市場向けには、「Nippon Victor Company」からの「NIVICO」(ニビコ)というブランドが使われていたが、旧ロゴ時代は円形に「JVC」(中央のVが大きい)のマークと併記されていた。1968年昭和43年)のロゴ変更後は「JVC」を大きくして「NIVICO」を小さくしたが、1977年(昭和52年)より「JVC」に一本化された。

家庭用ビデオフォーマットのVHSの開発メーカーであり、ソニー(初代法人、現・ソニーグループ)の開発した家庭用VTRベータマックスフォーマット争いを繰り広げていた。さらに、傘下にソフト会社であるビクター エンタテインメント(←ビクター音楽産業、現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)やテイチクエンタテインメントを始めとするソフト製作部門を持ち、ソニーに次ぐハードソフト事業を有する企業でもあった。その他のグループ会社に、JVCエンタテインメントビクターインテリアなど約100社の関連会社を持っていた。

2007年平成19年)8月10日のケンウッドとの資本提携により松下電器産業(現・パナソニックホールディングス。以下パナソニック)の子会社ではなくなったが、その後も筆頭株主としてグループ企業に名を連ねていた。共に家庭用AV機器を主力とし競合関係にある。長年、パナソニック創業者である松下幸之助の方針により、相互補完・相互競争による発展という概念からグループ内でも独自性を持っていた。

なお社名の読みについて、定款に定めをおいておらず登記もされていないが、近年のテレビラジオ放送提供クレジットニュース番組などの報道では「にほんビクター」とアナウンスされていた。
歴史
設立から戦後まで日本ビクター第一工場ファサード
(2023年現在、既に解体済み)

1927年(昭和2年)に日本ビクター(設立時は日本ビクター蓄音器株式会社)は米国The Victor Talking Machine Companyの日本法人として設立された。米国ビクターは明治時代から商品を日本に輸出していたが、関東大震災以後の大幅な輸入品関税のアップによる収益性の悪化から、生産から販売まで行う現地法人として発足した。

1929年に米ビクターがRCA社に吸収合併されたことで、RCAビクターに親会社が移行する。RCA社は、海外進出については合弁の方針であり、東芝・三井からの出資を受けていた。1931年には、現在の横浜本社工場に当時東洋一と呼ばれた蓄音機・レコードの製造工場となる第一工場を建設。経営基盤が強化された日本ビクター蓄音器は、RCA社から積極的な技術導入を進め、拡声器やラジオなど音のメディアへの積極的な進出をする。

日中戦争が始まり、外資系企業への圧力が強まる中で1938年にRCA社は資本撤退。株式を日産コンツェルンに譲渡する。この時、RCA社から、犬のマークとビクターの社名の日本での使用権を譲り受ける。

日産コンツェルンの株式は東京電気(現・東芝)に売却され、東芝傘下に入る。ビクターは1943年にRCA社と資本関係が解消した[4] 後も、研究・技術開発で交流を続け、国産初のテレビ開発や、オーディオ技術へと結びつく。大東亜戦争太平洋戦争/第二次世界大戦)が激化する中で、敵性語排除の動きを受け、社名を日本音響(株)と改称。生産工場も軍の管理となる。しかしレコードのレーベル名は最後まで「VICTOR(ビクター)」を存続させる。
松下の傘下へ

第二次世界大戦終戦直後の1945年10月に日本ビクターへ社名を変更している[4]

主力の本社・横浜工場・東京文芸座スタジオ、レコード製造施設を空襲で焼失し事業は壊滅状態で、労働争議の混乱による社長交代で親会社が東芝から日本興業銀行へ移行する。興銀は役員を派遣し再建計画を策定するもGHQが銀行の保有株式を制限したため、ビクター譲渡を東芝へ打診するも東芝も戦災の被害が大きく、ビクターの債務返済問題がこじれて話はまとまらず、次に戦前の親会社であるRCA社に打診する。

1954年(昭和29年)に松下電器産業(現:パナソニック)と提携し、松下幸之助の同郷人で元海軍大将野村吉三郎が社長に、松下の紹介で住友銀行出身の百瀬結が副社長に就くも、松下本体からは北野善郎を専務に派遣するにとどまった。野村は就任直後にRCA社を訪問して技術支援契約を結び従来の関係に戻す。1946年(昭和21年)に高柳健次郎を技術部長に迎えてテレビ開発を再開させた他、現行VTRの原型である世界初2ヘッドVTR、ステレオレコード業界標準の45/45方式、マルチサラウンド技術の原型で世界初4chレコードCD-4、プロジェクターなど多数の技術を開発する。高柳は1950年に取締役技術部長へ就任後、副社長と技術最高顧問を歴任する。
オイルショック

1960年には東京証券取引所大阪証券取引所に上場する。1969年には東京オリンピック公園の一角に最新の録音スタジオを建設、英米以外の地区で最も優れた機材が揃っていると言われた[4]。しかし、テレビのダンピング疑惑が業界全体に広まり、主婦連を中心にテレビの不買運動に発展。特に高価格商品にウェイトを置くビクターにとって痛手となった。輸出に逃げ道を求めたが、ニクソンショックによりそれもできなかった。その後、オイルショックによる景気の失速による業界不振が加わり、ビクターは低迷する。このため、社長に松下電器出身の松野幸吉が就任。当時のドル箱のレコード部門を1972年4月25日に分社化(ビクター音楽産業。現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)して、本体はハード事業に集中することとなった。

1970年代に入り、オーディオブームが到来。AVメーカーはこぞってコンポーネントシステムを発売。ビクターもグラフィックイコライザー(SEAシリーズ)や世界初の1台でステレオ音響を実現する球形スピーカー、SXスピーカーシリーズを発売する。
VHSの開発JVC HR-3300U VIDSTAR ? HR-3300の米国版。日本版とほぼ同一だが、ロゴに"Victor"の名称を使用し、"VIDSTAR"は使われなかった。VHSビデオテープ

1976年にはVHSビデオを開発。VHSは家庭用ビデオとしての要件を満たし、ソニーのベータマックスとの規格競争にも勝利し、日本初の世界標準規格となった。その後もVHSの基本規格を維持しながら、新たな規格を開発していった。ビデオカメラ用のVHS-C、高解像度を誇るS-VHS、高音質のHi-Fi規格、デジタル音声規格S-VHS-DA、アナログハイビジョン対応のW-VHS、デジタル放送対応のD-VHS等である。これらの規格には下位互換性が保障され、ユーザーがデッキを買い換えても以前のテープを使い続けることができた。VHSの影響でテープ、電子デバイス、映像ソフトなど新事業を拡大させるきっかけとなり、オーディオ・テレビなど既存の事業にも影響を与えた。

VHSビデオの発売当初は1000億円台だった年間売上は、年平均40%の成長を果たし、わずか6年で売上高6000億円台に到達、利益は4年間で10倍まで拡大した。ビクターはVHSの海外進出に合わせて海外展開を積極的に拡大し、生産・販売現地法人を各国に設立した。また、各国のAV企業へ技術供与を行い、JVCのブランドを確立した。

1982年からは欧州でのプロモーション強化を狙いFIFAワールドカップのオフィシャルスポンサーの権利を獲得。これにより欧州でのJVCブランドは絶対的な信頼を獲得することとなる。

VHSの成功後、既存のレコード設備を利用でき、絵の出るレコードとしてVHDを商品化した。参入を表明したメーカーは多数あったが、ディスクの耐久性に劣り発売延期が相次いだ。また、技術的な面ではパイオニア(ホームAV機器事業部。後のパイオニアホームエレクトロニクス→オンキヨー&パイオニアオンキヨーホームエンターテイメント〈2022年5月経営破綻〉→オンキヨーテクノロジープレミアムオーディオカンパニーテクノロジーセンター)が発売したビデオディスク規格のレーザーディスク(LD)が優勢だった。


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