商号の読みは「にほんテレビほうそうもう」ではなく「にっぽんテレビほうそうもう」が正しく、これは日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、NHK)やテレビ西日本(テレビにしにっぽん、TNC)の場合と同様に、英字表記する場合や局ロゴなどの表記では"NIPPON TVとしている。ただしこの2局[注釈 3]とは異なりコールネームの方は逆に「にほんテレビ(デジタルテレビジョン)」が正しいために局名告知でも全て「にほんテレビ」で統一されており、アナウンサーも「にほんテレビ」と読むことが多い[注釈 4]。更には国税庁の法人番号公表サイトでも商号の読み仮名が「ニホンテレビホウソウモウ」とされている[7][注釈 5]。
沿革
1950年代
1951年
08月13日、カール・ムント米上院議員が「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表[注釈 6][8][9][10]。
09月04日、読売新聞社の正力松太郎、日本テレビ放送網設立構想を発表[11][注釈 6]。
10月02日、日本テレビ放送網、テレビ放送免許を申請[11]。
1952年
07月31日、NHKに先んじて、日本で最初のテレビ放送予備免許を取得[12]。
08月05日、千代田区二番町14番地の社屋建設用地(約2100坪)の購入契約を締結。当地は南満洲鉄道の社長であった早川千吉郎邸があった土地で、1952年当時は大谷米太郎(大谷重工業社長、ホテルニューオータニ創業者)が所有していた[13]。
09月10日、テレビ放送に必要な主要機器(送信機、カメラ、アンテナ等)を、米RCA社に発注する[13]。
10月15日、創立総会を開催し、正力松太郎を社長に選出[13]。
10月28日、(旧)日本テレビ放送網株式会社(現・日本テレビホールディングス)として会社設立(資本金2億5千万円)。設立資金は正力からの要請を受けた池田勇人大蔵大臣が、財界人に声をかけ資金を調達した[13][14][15][16]。
1953年
02月18日、麹町のテレビ塔(アンテナ以外)完成。アンテナを含めた高さは154 m。高さ55 mと74 m地点に展望台を設置した[17]。
04月15日、資本金を5億円に増資[17]。
04月、社屋本館、大道具室、機械室が完成[17]。
07月03日、本館スタジオ(第1?3)完成[18]。
08月03日、テレビ塔にアンテナ取付完了[18]。
08月17日、名古屋と大阪にテレビ局の免許を申請(後に却下)[18]。
08月18日、街頭テレビ受像機を関東一円(都内29か所、周辺部13か所)に設置。
08月20日、試験電波を発射[18]。
08月22 - 26日、テレビ放送施設新設の検査を受ける[18]。
08月27日、テレビ放送本免許を取得[18]。
08月28日、午前10時から「テストパターン」を流し[19]、午前11時20分、『鳩の休日』の映像と共に民放初のテレビ局(地上アナログ)として本放送を開始(この日が開局記念日であり、開局時の出力は、映像10 kW、音声5 kWだった)。開局第一声担当は、結城雅子アナウンサーが務めた。日本初のテレビ局としての開局を目指していたが、多くの放送機材を米国からの輸入に頼っていたため納入が間に合わず、機材をほぼ国産品で揃えたNHKに先行された。日本で初めてとなるテレビCM(精工舎提供)を放送[20]。
08月29日、プロ野球巨人 - 阪神戦(後楽園球場)を民放テレビ局として初中継[20][21]。
08月31日、民放テレビ局として初のテレビドラマ『NTV劇場・私は約束を守った』放送。
09月04日、民放テレビ局として初の連続ドラマ『パック町を行く』放送開始。
09月19日、大相撲秋場所(蔵前)にて、民放テレビ局初の大相撲中継を行う[20]。
10月27日、プロボクシング世界選手権白井義男 - テリー・アレン戦を中継[20]。
11月15日、民放テレビ局として初めて中央競馬のテレビ中継となる秋の天皇賞(東京競馬場)を放送[22]。
11月27日、民放テレビ局として初めて地方競馬のテレビ中継(船橋競馬場)を行う[注釈 7][23]。
11月30日、民放テレビ局として初めて、国会開会式を中継する[23]。
12月01日、テレビ塔のエレベーター完成。12月10日よりテレビ塔展望台の一般無料公開開始[23]。
1954年
01月02日、民放として初めて、宮中参賀を中継する[23]。
02月19日、『力道山・木村政彦対シャープ兄弟プロレス実況』をNHKと同時に3日間にわたって放送。新橋駅西口の街頭テレビに連日2万人以上が詰めかけたため、日本のテレビ初期の看板番組にまでなる。以後力道山の人気はうなぎのぼりとなり、全国的なプロレス旋風が巻き起こる。
07月30日、日本で初めてのテレビカーを京成電鉄の1600形・1500形で実験を行い成功[24]。運転を開始する。京成電鉄のテレビカー車内では日本テレビの番組を放映していた。
09月04日、静岡県宇佐美海岸に於いて、海中のテレビ受信実験に成功[24]。
10月04日、ニュース番組『きょうの出来事』放送開始(2006年9月29日終了)。
1955年
02月27日、第27回衆議院議員総選挙、日本テレビとして初の選挙開票速報を実施[25][注釈 8][26]。
04月01日、資本金を7億5000万円に増資[26]。
05月30日、プロボクシング世界選手権白井義男 - パスカル・ペレス戦を中継。視聴率96.1パーセントを記録。
11月28日、清水与七郎が社長に就任[27]。
1956年
07月24日、開局時の局舎の裏側に増築した第4スタジオ(後の旧Gスタジオ、120坪)運用開始[28]。
08月19日、午前6時30分、日本初のテレビ早朝放送を開始。画面に初めて時分テロップを入れる[28]。
12月01日、中部日本放送(CBC、現在のCBCテレビ)、大阪テレビ放送(OTV、現在の朝日放送テレビ〈ABCテレビ〉)が開局し、両社とネットワークを形成[29]。
12月31日、精工舎(現・セイコーホールディングス)提供、同局をはじめ民放4社による共同制作の『ゆく年くる年』を放送[30]。
1957年
02月03日、来るカラーテレビ放送に備え、米RCA社から、スリービディコンカラーフィルムカメラを購入する[30]。
03月17日、『ミユキ野球教室』放送開始(1990年3月終了)。
04月01日、カラーテレビ放送開始に備え、5ヵ所の街頭テレビに、RCA社製21インチカラーテレビ受像機を設置する[30]。
04月18日、カラーテレビ放送実験局の免許を申請[31]。
10月24日、- 10月27日、日本初のプロゴルフトーナメント試合テレビ実況生中継を行う。(カナダ・カップ 於:霞ヶ関カンツリー倶楽部)[32]
12月27日、カラーテレビ実験局本免許を取得(コールサイン:JOAX-TVX)[33]。
12月28日、カラーテレビ実験局開局(民放初)。初のカラーフィルムによる実験放送を開始 [34]。
1958年
04月09日、資本金を10億円に増資[35]。
07月14日、この日のカラーテレビ実験放送枠内にて、日本初のカラーアニメーション映画「もぐらのアバンチュール」を放送(同年10月15日に同枠内にて再放送)[36][37]。
08月28日、開局5周年。番組編成を日本テレビ主体に置いた系列局として、讀賣テレビ放送(YTV)、テレビ西日本(TNC)が開局。先に開局した西日本放送(RNC)も含め、日本テレビの全国ネットワーク体制のさきがけとなる[38]。
09月12日、カラー放送の為の実写用のカラースタジオカメラ(米RCA社製 TK-41)を購入[39]。
10月01日、(株)レクリエーション・センターを合併し、資本金が12億円に[39]。
10月14日、テレビ番組のキネスコープを使ったフィルムでの記録を開始する[39]。
12月12日、初のスタジオカラーカメラによる実験放送番組『手品教室』が始まる[39]。
12月18日、米アンペックス社製の放送用の2インチVTR(VR-1000 モノクロ仕様)を購入[39]。