2006年6月7日、川淵三郎キャプテン(JFA会長)が「日本およびアジアのサッカー発展の貢献と2002年FIFAワールドカップの成功」を称えFIFAよりFIFA功労賞を受賞した。これでJFAからは6代目の藤田静夫元会長に続く2人目の快挙である。なお、同賞は、ジーコ元日本代表監督も1996年に受賞している。
2012年1月9日、2011年度のFIFAバロンドールにおいてFIFAフェアプレー賞を受賞した[20][21]。
公益法人制度改革に伴い、2011年9月、財団法人から公益財団法人への移行を申請し[22]、2012年4月1日より公益財団法人となり、それに伴い、文部科学省から完全に独立した(2012年3月31日までは、文部科学省が日本サッカー協会の監督官庁であり、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)[1](後述)。
2013年5月30日、FIFA総会で傘下の全サッカー協会(2018年時点では211)が「FIFA標準規約」(会長選挙を必ず実施する等の内容)に準拠した規約制定を義務づけられたため[23]、規定を改正し、2015年3月29日に施行した[24]。2015年12月1日にJFA初のJFA会長選挙が始まり、立候補受付を開始した。2016年1月31日臨時評議員会で田嶋幸三が当選し、同年3月27日の新体制の第1回理事会を経て正式に第14代JFA会長となった[25]。また、同じく2013年、FIFA傘下の全211協会(2018年時点)は、「FIFA標準規約」にある三権分立(立法(評議員会)、行政(理事会)、司法(規律委員会・裁定委員会))の原則に従うことが求められたため、2014年4月1日、司法機関(規律委員会、裁定委員会、不服申立委員会)をJFAから完全に独立させた(後述)[26][27]。
2015年5月、JFAは、JFA2005年宣言におけるJFAの約束2015[10] の総括として『世界トップ10の組織は、達成』、『サッカーファミリーが500万人になることは、達成(2015年時点526万2220人)』、『日本代表が世界でトップ10のチームになることは、未達成』と発表した[28]。総括で出た課題を元に、「JFAの約束2050」の具現に向け、新たに「JFAの目標2030」を設定した[29](詳細はJFA2005年宣言の項で後述)。
なお、DPRコリアチームのリ・ユイル監督ほかが再三韓国の報道陣に対し国名の呼称について抗議[30][31]する一幕が見られたために、JFAはDPR Koreaを正式略称として採用した[32]。 以下の記述は基本的に、公益財団法人日本サッカー協会公式HPの沿革・歴史ページ[4] に基づくが、書籍及び資料等で確認された出来事も追記している。
歴史「日本のサッカー」も参照
沿革
1921年9月10日 - 大日本蹴球協會として創立[33][4]。
1925年3月 - 大日本體育協會に加盟[4]。
1929年5月17日 - 第18回FIFAバルセロナ総会で国際サッカー連盟(FIFA)加盟(JFA公式HPでは第二次世界大戦の際に除名とある)[33][4]。
1942年4月 - 戦況悪化で大日本體育協會が財団法人大日本体育会に再編成され、他競技団体と共にその部会(蹴球部会)となり一時消滅[33][4]。
1945年11月13日 - 第二次世界大戦後、会費が払えずFIFAが資格停止処分(第二次世界大戦終結は1945年9月2日)[34][35][36]。
1947年4月1日 - 日本蹴球協会へと名称変更した上で再発足[33][4]。
1950年9月23日 - FIFAに日本蹴球協会として再加盟[4][35]。
1954年10月 - アジアサッカー連盟(AFC)を他のアジア12か国と共に同年5月8日に創設し(なお、AFCは政治的配慮により今もなお、イスラエルを創設メンバーとして認めていないため、AFC創設メンバーは日本を含め12か国としている)[7][4][37]、10月にAFC加盟[8]。