日本の黒幕
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当時の大島は1976年の『愛のコリーダ』、1978年『愛の亡霊』で国際的な知名度を高めていた時期だった[4][18]

当時の東映は組合運動も激しく[19]、外部作品をプログラムにズラリと並べて[19]、遂には大島渚の招聘か、と『噂の眞相』が『朝令暮改からアナーキーへ 混沌の中で大東映よ何処へ行く』と揶揄した[19]岡田茂東映社長は「監督を養成する悠長な時代は過ぎた。優れた才能は外部からでもドンドン起用する。『動乱』で東宝出身の森谷司郎さんを招聘したのもその表れの一つだ。大島さんの招聘も、いわば新しい血の導入という方針からで、これをいい刺激剤にして欲しい」などと話した[9][19]1978年初めの『柳生一族の陰謀』の大ヒット以降、東映は黒字の劇映画がほとんどなく[9]、「東映は"まんが"で赤字を埋めている」と陰口を叩かれていて、岡田は「情けない。(劇映画)を当てなきゃならん」とハッパをかけていた[9]。当時の日本映画界で観客動員力のある監督といえば、黒澤明山田洋次、世界のオオシマの3人ぐらいだった[9]1962年の『天草四郎時貞』以降、東映と大島は疎遠になっていたが、岡田と大島は仲が良く[9]1978年の『愛の亡霊』が第31回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞したとき、現地でいち早くお祝いに駆け付け、「大島さんは20年間、製作態度をガンとして変えなかった」などと称賛し、大島は「ジーンと来た」と話した[9]
製作発表

1979年6月13日、正式に製作が決定し[9][10]東映本社で製作会見が行われた[9]。席上、日下部プロデューサーが「現代日本の政財界の腐蝕の構造にメスを入れる権力告発ドラマだ。誰が見ても想像できる人物をモデルとして登場させたい。何人かのドン(首領)やフィクサー(黒幕)をはじめ、ヤクザ、テロリスト総会屋警察政治家実業家など様々な人物を登場させる。総理大臣はフィクサーたちによって作られると私は解釈していますから、その誕生ドラマの裏面を重厚に描きたい。『日本映画として初めてこんな映画ができたぞ』と言える作品を作りたい」などと話した[9]。大島は「以前から俊藤浩滋プロデューサーから『やらないか』と声をかけられていましたので、その恩返しもあって腰を上げました。ナマの日本の現実に取り組んでみたい」[9]「"暴力"を主テーマに東映やくざ映画の構造とにおいを持った作品にする」[8]「ヤバイ素材への冒険だ」[9]「本当に題名通りのフィクサーを描くのなら、児玉誉士夫とロッキード事件まで視野におさめなければ、やる意味はないと思います。その点、東映も了解したので引き受けることに決めました」[10]などと話し、強い意欲を見せていた[9][10]。大島の久々の日本のメジャー映画復帰は大いに話題を呼んだ[9][10]クランクイン予定は1979年8月10日と発表された[9][10]

編成上、1979年の10月末の公開が先に決まっていて取り掛かりが遅く、大作の割りに時間がなかった[13]。児玉誉士夫は、自身もモデルとして登場する1974年の『あゝ決戦航空隊』(山下耕作監督)で東映の試写会に訪れ、観劇後に倒れたことがあり、東映の幹部とは面識があった[13][20]
脚本1
高田脚本・大島監督

製作発表の後、大島は京都での常宿・石塀小路のI旅館で脚本執筆を始めた[9]。1979年7月に『噂の眞相』の記者が京都に出向き、大島に取材した話は後述する話と整合しない点があるが、大島がその時話した内容は以下のもの。「東映サイドからの要望は、日本を揺るがす事件を起こしたブラック・ジャーナリストの権力欲と挫折の話で、あまりパターン化した話でつまらないと、思い切って少年テロリストを登場させることに決めた。日本の政界を動かすフィクサーに怒りを覚えた少年が、フィクサーを刺殺する。お国のために動くフィクサーと同じように、お国のためにと思って行動する少年。このぶつかり合いの中から何が出てくるかをスクリーンにぶつけてみたい。少年テロリストは一般公募する」などと話した[9]。また脚本制作に画期的な試みを企て、メインライターの高田宏治内藤誠コンビが、それぞれ独自に脚本を書き、その二つのオリジナルシナリオをドッキングするというユニークな脚本作りをするなどと話したという[9]。大島が少年テロリストを一般公募する話は『読売新聞夕刊1979年6月16日付けに掲載されたため[10]、それを読んで当時17歳の三上博史が新聞社へ連絡して、三上が大島に直接売り込み、数回の面談を経て、大島は少年テロリスト役に三上の起用を決めていたという[10]

高田宏治が「フィクサーの暗殺を狙う足の悪い少年がフィクサー宅に侵入するが、監禁されやがて暗殺者に育てられていく」という構想を大島に伝えると大島も賛同したため、脚本を完成させ大島に見せたが、「こんなつまらんものができるか!」と脚本を投げつけられた[10][13][14]。高田はこれに耐え、大島に「どんなものをやりたいのですか?」と聞いたら「精神を病んだ児玉誉士夫の娘が地下に監禁されて、赤い靴を履いた女の子と踊っているというイメージのようなものだ」と言われた[14]。大島の構想は闘いのドラマではなく、児玉の話とは融合しないと高田は考え、大島が「高田の脚本ではやれない」というので高田が降板し、大島は内藤誠を京都に呼んで、大島と内藤の共同で脚本を書き始めた[6][13][10][14]。 
キャスティング

大島は高田脚本を待つ間に先行してキャスティングやスタッフ編成、ロケハンも開始していた[10]。少年テロリストに三上、フィクサー役には、若山富三郎安藤昇勝新太郎などが候補に上がったという[10]。主演の佐分利信は『日本の首領シリーズ』でヤクザ映画に初出演したが他は、田村正和佐々木孝丸内藤武敏有島一郎らが脇を固めており、従来の東映ヤクザ映画とは違い、ヤクザ映画のパターンから外れている[5]


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