日本の降伏
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陸相であった宇垣一成大陸に派遣し、中華民国重慶国民政府との和平交渉を打診した。そして、サイパンが陥落し、本土への連合国軍による空襲が本格化した1945年(昭和20年)3月には南京国民政府高官でありながら、既に重慶政府と通じていることが知られていた繆斌を日本に招き、和平の仲介を依頼した。ところが、重光葵外相が繆斌を信用せず、小磯国昭首相と対立し、これも閣内不一致で内閣総辞職となった。

この間の1945年2月、元首相の近衛文麿を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すれば「ソビエト連邦軍による占領及び“日本の赤化”を招く」という危険性を訴えた上で、戦争の終結を求める「近衛上奏文」を昭和天皇に献言した。ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、吉田茂岩淵辰雄殖田俊吉らいわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕された。そして昭和前期の日本軍・政治家・官僚は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を、更に神風特別攻撃隊まで編成して、無謀な戦闘を継続させた。

1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣東郷茂徳外相は、日ソ中立条約が翌年4月には期限が切れても、それまでは有効なはずであったことから、ソビエト社会主義共和国連邦を仲介役として和平交渉を行おうとした。東郷個人はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、連合国との和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が日ソ中立条約の終了時、もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいたため、ソ連が日本と連合国との和平を仲介すると言えば、軍部もこれを拒めないであろうという事情、また逆にソ連との交渉が破綻すれば、日本が外交的に孤立していることが明らかとなり、大本営も実質上の降伏となる条件を受け入れざるをえないであろうという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使として、モスクワでノモンハン事件を処理し、ソ連との和平を実現させたという成功体験も背景にあったとされる。

翌5月、最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸相・海相・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)において、東郷外相は、ソ連の参戦防止及びソ連の中立をソ連に確約させるための外交交渉を行なうという合意を得た。当初、これには戦争終結も目的として含まれていたが、阿南惟幾陸相が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」と反対したため、上記2項目のみを目的とすることとなった[2]。東郷は、かつての上司であった元首相の広田弘毅ヤコフ・マリクソ連大使とソ連大使館(強羅ホテルに疎開中)などで会談させたが、戦争終結のための具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言しなかったため、何ら成果はなかった。

その上、6月6日、最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されたため、日本側からの早期の戦争終結は少なくとも表面上は全く不可能となった。にもかかわらず、矛盾する事に、木戸幸一内大臣と東郷外相及び米内光政海相は、第二次世界大戦の際限ない長期化を憂慮して、ソ連による和平の斡旋へと動き出した[3]。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を速やかに行うよう政府首脳に要請した[4]

しかし、東郷による広田・マリク会談は、それまでと同様、何ら進展しなかった。ただし広田は、1932年(昭和7年)のリットン報告書のことを考えれば遅きに失した感はあるが、マリクとの最後の会談で、和平斡旋の条件として満州国(現在の中国東北部)を中立化することをソ連に提案している[5]。しかし、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった[6]。7月7日、これを伝え聞いた天皇は東郷に親書を持った特使を派遣してはどうかと述べた[7]。そこで東郷外相は近衛に特使を依頼し、7月12日、近衛は天皇から正式に特使に任命された。日本外務省は、モスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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