新橋 - 横浜間の工事については、鉄道拡張に伴って1873年にイギリスから新たに来日した技師が、「端から端まで、作り替えが必要」と、Eight Years in Japan, 1873-1881に書いているほどで、ずさんな工事だったことがわかる[5][信頼性要検証]。
横浜駅(現:桜木町駅)の全景
出土した高輪築堤
神奈川駅-横浜駅の堰堤が描かれた地図(1881年)
開業までの動き新橋駅0哩標識(鉄道記念物)旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
1870年2月6日(旧暦1月6日)、外務卿だった沢宣嘉が、米人ポートマンとの鉄道建設契約の破棄をアメリカ公使に通告し、2月13日(旧暦1月12日)公使は抗議した[6]。旧暦1月、谷暘卿が鉄道建設の建白書を政府に提出した[7]。4月19日(旧暦3月19日)、政府が鉄道掛を設置し、旧暦3月25日に東京・横浜間の測量を開始した[7]。8月26日(旧暦7月30日)、鉄道掛は大阪・神戸間の測量を開始した[8]。
1871年9月28日(旧暦8月14日)、鉄道寮は品川県と神奈川県に対して、線路立入禁止の通達を依頼した。この頃、京浜間の鉄道完成個所で試運転を開始した[9]。
明治政府の太政官は1872年4月5日(旧暦2月28日)に鉄道略則を、6月9日(旧暦5月4日)に鉄道犯罪罰例・改正鉄道略則を制定した。6月12日(旧暦5月7日)、品川・横浜間で鉄道が仮開業した[8]。10月15日(旧暦9月13日)に新橋・横浜間で旅客運輸を開始し、翌1873年9月15日に貨物運輸を開始した[8]。
英国人技師の指導を受けた線路工事が概ね完了し、安全確認と乗務員訓練のため、1872年6月12日(明治5年5月7日)に品川駅 - 横浜駅(現在の桜木町駅)間を仮開業し、一日2往復の列車が運行され、翌13日には6往復になった。しばらく途中駅はなかったが、7月10日に川崎駅と神奈川駅(現在は廃駅)が営業を開始した[10]。
正式開業日である1872年の10月14日(明治5年9月12日)には、新橋駅で式典が催された。明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転した。
お召し列車の主な乗客明治政府明治天皇(国家元首)、有栖川宮親王(皇族)、三条実美(太政大臣)、井上勝(鉄道頭)、山尾庸三(工部省)、西郷隆盛(参議)、大隈重信(参議)、板垣退助(参議)、勝海舟(海軍)、山縣有朋(陸軍)、江藤新平(司法卿)、渋沢栄一(大蔵省)、大久保一翁(東京府知事)
外国大使イタリア全権公使、アメリカ全権公使、イギリス代理公使、フランス代理公使、スペイン代理公使、オーストリア代理公使、ロシア代理公使
琉球 維新慶賀使伊江朝直(=尚健、王子/琉球正史)、宜野湾親方朝保(親方/琉球副使)、喜屋武朝扶(親雲上/賛議官)他
新橋駅での鉄道開業式典では、欧州各国の外国大使達の他、維新慶賀使として琉球王朝からも琉球使節が派遣され、お召し列車に乗車した。
そして翌10月15日には営業運行が始まった。鶴見駅が開業したのは、この時である。正式開業時の列車本数は1日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8 km/hであった。
これを記念し、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。
開業時の状況明治初期の列車
当初、正式開業は重陽の節句の10月11日(旧暦9月9日)を予定していたが、当日が暴風雨だったため延期された経緯がある。
開業時の全区間の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘であった[11]。下等運賃でも米が5升半(約10 kg)買えるほど高額なものであったという。6月12日に品川駅 - 横浜駅間で仮開業した際は、上等が1円50銭、中等が1円、下等が50銭であった。これは当時の並駕籠の料金と下等の運賃、早駕籠と上等を大体同じにしたものである。しかし高額で乗客が少なく、7月10日に改訂して、同区間で下等が31銭2厘5毛とした。半端なのは当時1円=1両=4分=16朱という四進法がまだ残存していたからである[12]。
実際の建設に際しては、土木工事は築城経験のある日本の技術が生かされたが、六郷川橋梁だけはイギリス人の指導の下に木造で架橋された。
車輌は全てイギリスから輸入された。蒸気機関車10両は全て車軸配置1Bのタンク機関車で5社の製品を混合使用した。恐らく一社に過度な負担を掛けないようにするのと、各社に利益を分配するという理由があったのではないかとされている。その中で4両あったシャープ・スチュアート社製の機関車が最も使いやすかったといわれている。客車は全て2軸車で、上等車(定員18人)10両、中等車(定員26人)40両、緩急車8両が輸入されたが、開業前に中等車26両は定員52人の下等車に改造された。当時の客車は台車や台枠は鉄製だが壁や屋根を含む本体は木造であり、日本人大工の手によって改造された。
鉄道員には士族が多かったため、乗客への態度は横柄なものであったといわれる。機関車を運転する機関士は外国人であった。また運行ダイヤ作成もイギリス人技師のウォルター・ページに一任されていた。 開業翌年の1873年(明治6年)の営業状況は、乗客が1日平均4347人、年間の旅客収入42万円と貨物収入2万円、そこから直接経費の23万円を引くと21万円の利益となっている。この結果「鉄道は儲かる」という認識が広まった。また旅客と貨物の比率について、鉄道側に貨物運用や営業の準備不足があったと思われる。 線路の幅(軌間)が欧米の1,435 mm(4 ft 8.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄2 in、標準軌)に比べて狭い1,067 mm(3 ft 6 in、狭軌)になった理由を示す史料は現在残されていない。 当時新政府の財政も担当していた大隈重信は「『予算や輸送需要を考えれば狭軌を採用して鉄道を早期に建設すべき』と主張したエドモンド・モレルなどお雇い外国人に説得されてしまった」。大隈自身は軌間というものを当時は理解しておらず、狭軌を採用したことを「一生の不覚であった」とのちに述べている[13]。 もっとも、狭軌だと車両や線路の構造物が小さくなり、建設コストが低いというメリットがある。そのため明治初期の限られた予算で迅速に鉄道網を築き上げるのには、狭軌が適していたとも考えられる[14]。
営業成績
1,067 mm軌間採用についての背景「日本の改軌論争」も参照
開業記念事業鉄道50年祝典が開催された際の会場配置図「鉄道の日」も参照