日本の鉄道事故_(1950年から1999年)
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当時の新聞によると、乗客500名(朝日)または400名(山梨日日)のうち9名が軽傷を負ったものの、死者は発生しなかった。事故原因は諸説[注 3]あるが、トンネル進入時にパンタグラフが急降下して折り畳まれたことで、パンタグラフと架線との間にできたわずかな隙間にアークが連続発生したことで架線を溶断して垂下させ、最後尾のモハ62001の屋根に接触して全車両に燃え広がったものと推定されている[11][12]。なお、身延線のトンネルは国鉄の他の路線と比較して天地寸法が狭小であるため、通常車両限界ではなく縮小車両限界適用区間であり、その走行に対しては屋根高さやパンタグラフの折り畳み高さが低くなるようにした専用車両を要する。しかし、この編成に連結されていたモハ30173は、本来はトンネルのない富士駅 - 西富士宮駅間の区間運転用の車両であり、身延線のトンネル通過を禁じられていた車両であったが、運用担当者が誤って甲府行きに充当したために事故を起こしたとみられている。編成全車両が全焼したが、モハ62001は焼損したまま西武鉄道へ譲渡され、モハ30173は国鉄豊川分工場でクハ47023に改造のうえ復旧[注 4]したが、中間のクハ101とサハ701については記録がなく廃車されたものと思われる。[13]事故車両の62系電車は、身延線用として折り畳み時の高さを低く抑えたパンタグラフを導入していたが、この事故により離線距離が充分確保されていないものと判断された。事故後はパンタグラフ折畳高さ上限を3,960 mm[注 5]と定められ、同時に身延線を走行する車両に対してパンタグラフ搭載部を低屋根化する改造工事、および不適合車両の他地域転配などが行われている。事故後に身延線へ投入された車両についても、パンタグラフ部の屋根高を低く抑えた車両や、狭小トンネルに対応したパンタグラフを搭載した車両が導入されている。分割民営化後の東海旅客鉄道(JR東海)においても、車両新造の際は一部の車両[注 6]を除いて身延線への入線を考慮した屋根高さで新規設計されたり、既存車でも折畳高を低く抑えられるシングルアームパンタグラフに載せかえるなどの対策を行っており、現在に至るまで建築限界上の特別な影響を受けている。また、身延線同様に狭小トンネルを有する中央本線においても、狭小トンネルを45 km/h以下で通過することを条件に通常の屋根高さの車両が使用されることがあったが、当事故後にそれを一掃すべく、翌1951年7月からモハ30形7両を低屋根改造のうえで中央本線に専用配備したほか、防火性と狭小トンネルに対応した初の全金製低屋根電車であるモハ71形試作車も登場した。この事故は、国鉄における車両火災・トンネル事故対策の契機にはなったものの、翌1951年には本件事故よりも多くの死傷者・被害を出した桜木町事故が発生している。
広島電鉄宮島線多重衝突事故
1950年(昭和25年)12月24日8時45分ごろ
広島電鉄宮島線楽々園駅西側の踏切にて自動車と上り電車が衝突し、電車が脱線。そこに走行してきた下り電車が衝突した(朝日新聞では三重衝突と表現している)。自動車の運転手1人が死亡、電車の乗員乗客12人が重軽傷[14]
1951年
桜木町事故
1951年(昭和26年)4月24日国鉄戦後五大事故
(京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災)京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で碍子交換工事中に誤って切断され、垂れ下がっていた架線に接触、電流の短絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106名、重傷者92名を出す大事故となった。その当時、京浜線電車に使用していた63系電車戦時設計に起因する粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、国電の安全対策強化の契機となった。詳細は「桜木町事故」を参照
1952年
青梅線小作駅貨車暴走事故
1952年(昭和27年)2月19日
青梅線小作駅構内に留置中の貨車(計4両)が動き出し、約3.7 km離れた福生駅まで暴走したのち引き込み線に入り、そこに停車していた貨車に激突して大破した。当時は三鷹事件などが発生した時期であり、この暴走事故も意図的に起こされた事件ではないかとして共産党活動家などが逮捕されたが、1968年に被告全員の無罪が確定した。詳細は「青梅事件」を参照
日暮里駅構内乗客転落事故
1952年(昭和27年)
6月18日 7時45分
国鉄日暮里駅構内の南跨線橋の10番線に面した羽目板が利用客の重量に耐え切れなくなり破損し、数十人が7 m下の線路に転落した。そこへ走行してきた京浜東北線浦和行き電車にはねられ8名が死亡、5名が重軽傷を負った。事故原因は跨線橋(1928年建設)が老朽化しており、さらに破損箇所は将来延長する予定だったため補強がされていなかった[15]こともあるが、当日未明に上野駅構内で発生した信号所火災の影響で東北本線の上り列車が日暮里駅に臨時停車していたことに加え、並行する京浜東北線でも6時56分に車軸が破損するトラブルがあって一時運転を見合わせていたため、平常以上の乗客で混雑していたためでもある。上野方に急カーブがあり見通しが利かず、運転士による発見が遅れたことも被害を大きくした。

事故現場写真

事故現場図解
現在とは大きく異なり、京成線ホームが多層化しておらず、京浜東北線・山手線が分離されず東北本線にもホームが存在した。

まりも号脱線事故
1952年(昭和27年)
6月28日 9時17分ごろ
函館本線余市駅構内を進行中の上り急行「まりも」の機関車(本務機関車+補助機関車)と客車5両が脱線。機関車の機関助手1名が軽傷を負った。少年の置き石が原因。1951年5月17日に発生した「まりも号脱線事件」とは別件の事故である。
1953年
宮地岳線正面衝突事故
1953年(昭和28年) 7月8日7時40分ごろ[16]
西日本鉄道宮地岳線(現・貝塚線)西鉄新宮駅 - 三苫駅間で木造車と鋼製車が正面衝突し、4名が死亡、97人が重軽傷を負った。新宮発下り(貝塚・福岡市内方面)の107号電車が三苫駅西方約200 m付近にて、昭和28年西日本水害の影響で地盤がゆるんだことによって発生した土砂崩れを発見。約10 mにわたって発生しており、線路が埋没していた。107号電車は乗客を現場で降車させて単線を引き返していた際、これを知らずに走行していた後続の109号電車と正面衝突したものである。107号車が徐行をしていなかったことと、乗客をほとんど下ろしていた107号車が鋼製車で、通勤・通学客で満員であった109号車が木造車であったことといった不運が重なり、衝突によって107号車は109号車に3 - 4 mほど食い込んだ。死者のうち2名は福岡市内へ通学する中学生で、重軽傷者の中にも通学中の中学生が多かったという。三苫駅は無人駅であり、107号車の車掌はタブレットを持って徒歩で次の和白駅に知らせた。和白駅から連絡および救援要請を受けた新宮駅助役はタブレットのない107号車が引き返すとは思わず、109号車を現場に向けて発車させた。このような西鉄側のミスや運転規則無視を原因とし、糟屋地区警察署は関係者4人を業務上過失致死傷罪で立件した。
1954年
1955年
飯田線大表沢鉄橋脱線転覆事故大表沢鉄橋脱線転覆事故現場
1955年(昭和30年) 1月20日21時5分ごろ[17]
長野県下伊那郡泰阜村飯田線の明島川にかかる大表沢鉄橋で、豊橋飯田行きの列車(2両編成、モハ14033+クハ18003)が線路上に土砂があるのを発見して非常ブレーキをかけたが間に合わず、土砂に乗り上げて脱線転覆。先頭車両は仰向け、後部車両は横倒しとなり大破。乗客33名のうち5名が死亡。
東海道本線東田子の浦列車衝突事故
1955年 (昭和30年)5月17日2時19分
東海道本線原駅 - 東田子の浦駅間の植田踏切で、京都東京修学旅行3138列車(EF58 66+客車11両・乗客837名)の機関士が立ち往生していた在日アメリカ合衆国軍トレーラーを発見。
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