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日本の鉄道事故(にほんのてつどうじこ)では、日本の鉄道が開業した1872年から1949年に発生した日本の鉄道事故について記述する。
1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (1950年から1999年)を参照。
2000年以降に発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (2000年以降)を参照。
大きく報道された鉄道に関する事件については、日本の鉄道に関する事件を参照。
多くの事故は正式名称がないため、便宜上独自の事故名表記としている。
1870年代
新橋駅構内列車脱線事故
1874年(明治7年)10月11日(列車脱線事故)
午前8時15分、新橋駅構内で横浜駅(現・桜木町駅)からの列車が到着する際、ポイント通過時に機関車と貨車1両が脱線し転覆、客車2両が脱線。負傷者なし。これにより午前中の運行は取りやめ、午後も品川 - 横浜間のみの運転となる。原因はポイントの故障とされる。日本最初の鉄道事故[1]。
東海道線神崎列車ウシ衝突脱線事故
1874年(明治7年)12月1日(列車脱線事故)
神戸午後5時15分発の大阪行き最終列車が、神崎駅(現・尼崎駅)を発車して神崎橋へ近づいたところで、線路内へ走ってきたウシと衝突した。即死したウシの死体が中央部車輪に巻き込まれ、客車2両が脱線し転覆、2両が脱線した。負傷者なし。
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故
1877年(明治10年)10月1日
東海道線・住吉駅 - 西ノ宮駅(現・西宮駅。摂津本山駅・甲南山手駅・芦屋駅・さくら夙川駅はすべて未開業)間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。上下列車は本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の機関方(機関士)が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車したのが事故の原因である。上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。従来は駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする票券閉塞方式の導入が前倒しされた。日本最初の鉄道死亡事故[2]。
1880年代
大森駅構内列車脱線事故
1885年(明治18年)10月13日)[3](列車脱線事故)
午前1時ごろ、東海道線大森駅構内で、到着した最終の新橋発大森行き臨時列車(客車14両編成、池上本門寺の参詣客用)を下り線から上り線に転線する作業中、分岐器上で下等車の客車3両が脱線転覆[3]。乗客1名死亡、1名負傷。当日(10月12日)は池上本門寺の御会式期間中であり、大森駅は朝から通常の70倍を超える乗降客で混雑と混乱の極にあったとされる[注 1]。事故原因は朝からの大混乱で疲労困憊した係員が緑灯と赤灯を見間違えたこと、さらに分岐器の切り替えが不確実であったことの2点であった[3]。政府は「鉄道掛り之者失錯より此変死を」起こしたとして事故の全面的責任を認め、死亡者に100円の埋葬手当・遺族手当を支払った[3]。日本の鉄道における最初の旅客死亡事故[4]。構内(蒲田寄の東海道線上下線間)に木製の慰霊碑が建立されていた ⇒www.golgodenka.com/reports/railway/monument/omori-station-accident01/omori-station-accident01.htmlが、2015年頃までに撤去されている。
今[いつ?]はアトレ[どこ?]の線路側に移動している
東海道線工事列車正面衝突事故
1889年(明治22年)4月11日
午前11時15分ごろ、東海道線安倍川付近で15号機関車牽引の静岡発工事列車と5号機関車牽引の焼津発静岡行工事列車が正面衝突し、4人が死亡、7人が負傷した。死亡した中には、名古屋で開かれる第三師団の招魂祭に参列するために乗車していた静岡県知事の関口隆吉がいた。まだ東海道線が全通しておらず、関口は工事列車に併結された客車に便乗していたが、前の貨車が積載していた鉄材が衝突時の衝撃で客車に突き刺さり、その鉄材に足を挟まれた。足を切断しなければならない状態にもかかわらずそれを拒否したため破傷風によって傷口が化膿し、5月17日に死亡した[5][6]。
1890年代
山陽鉄道軍用列車海中転落事故事故現場付近にある慰霊碑
1895年(明治28年)7月25日
当時山陽鉄道の路線だった山陽本線尾道駅 - 糸崎駅間を深夜に走行していた上り軍用列車(蒸気機関車牽引、客車23両、車両はすべて鉄道局所有)が、神戸起点225.3km付近(現在の広島県三原市と尾道市の境界)において、折からの暴風雨による満潮時の波浪で、築堤が300mにわたって崩壊していた線路に突入したため、機関車と客車6両が瀬戸内海に脱線転落した。軍用列車には日清戦争に従軍した傷病兵と付添人、乗員ら358名が乗車していたが、11名死亡(うち乗員3名)し、98名が負傷した。事故後脚気で3名が死亡したため、後述の慰霊碑では乗客の死者を11名としている。機関車に乗務していた機関士と火夫見習いは殉職したが、火夫は顔面の負傷のみで助かり、海中に転落した客車から傷病兵を救助し、事故発生を知らせるために徒歩で尾道駅に向かった。