日本の鉄道事故_(1949年以前)
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慰霊碑は事故から41年後の1936年に第5師団の手で建立されており、現在も山陽本線才の原踏切(尾道バイパスと鉄道の立体交差地点)の傍らにある。

参考:山陽鉄道大脱線 明治28年7月26日東京日日新聞『新聞集成明治編年史. 第九卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
奈良鉄道平面交差衝突事故
1895年(明治28年)
11月19日
奈良鉄道(現・奈良線京都行き22列車が、京都駅 - 伏見駅間の竹田街道で平面交差していた京都電気鉄道の電車に衝突し、電車の乗客3人が死亡、29人が負傷した。京都電気鉄道側の信号無視が原因。
東海道本線工事列車転落事故
1897年(明治30年)10月3日
東海道本線(現・御殿場線小山駅 - 山北駅間(谷峨駅は信号所時代を含め未開業)が、台風による酒匂川の氾濫によって不通になり、復旧工事が進められていた。午前5時ごろ、沼津から復旧工事現場に来た工事列車(機関車202号牽引)が停止しようとしてブレーキ操作を誤り、速度超過のため車止めを突き破り築堤下に転落、乗組員3名(うち2名は即死、もう1名も当日に死亡)および作業員6人の計9名が死亡し16名が負傷した[7]
九州鉄道蒸気機関車ボイラー破裂事故ボイラーが破裂した機関車
1898年(明治31年)4月8日 8時ごろ
九州鉄道(のちに国有化)幸袋線(1969年廃止)の幸袋駅構内で混合列車を牽引していた蒸気機関車(タンク式、のちの3300形蒸気機関車、1893年アメリカ合衆国ボールドウィン社製造)が、貨車入れ替え作業中にボイラーが破裂し大破。乗務員2名と駅員1名が殉職し、踏切にいた歩行者4名、民家内に居た1名が負傷したほか、吹き飛んだ車体で400(約120m)離れた地点までの民家3軒も破損した。事故は外火室が破裂したものであったが、原因不明[8]
箒川鉄橋列車転落事故
1899年(明治32年)10月7日
当時日本鉄道の路線であった東北本線矢板駅 - 野崎駅間で発生した、明治時代最大の鉄道事故である。当日17時ごろ、折からの台風接近による強い風雨のため、上野福島行きの貨車客車混合第375列車(機関車2両・貨車11両・客車7両)は矢板駅を約1時間遅れで発車した。箒川鉄橋を通過中突風にあおられ、この瞬間貨車最後尾の緩急車の連結が外れて緩急車とその後ろの客車7両が鉄橋上で転覆、そのまま箒川へ転落した。増水した川の濁流で貨車・客車は砕かれ、一部の遺体は下流の烏山町まで流された。死者19名、負傷者38名[9]。詳細は「箒川鉄橋列車転落事故」を参照
1900年代
東海道本線山崎駅 - 高槻駅間列車脱線事故
1900年(明治33年)8月4日 19時45分頃(列車脱線事故
東海道本線山崎駅 - 高槻駅間(当時島本駅は未開業)で下り第105混合列車(蒸気機関車・客車12両・貨車11両)が走行中突然、前から11両目の客車と次位の貨車3両が脱線し、その4両のうち2両が築堤下に転落し1人が死亡、2名が負傷した。事故原因は不明とされてきたが、後年の二軸貨車競合脱線事故の最初のものと考えられている[10]
信越本線横川駅 - 軽井沢駅間乗務員乗客転落事故
1901年(明治34年)7月13日鉄道人身障害事故
信越本線横川駅を発車し、軽井沢駅へ向かって登坂中の長野行き第51列車において、20時40分ごろ1C1形蒸気機関車の蒸気管が突然破裂し、噴出した蒸気によって機関助士2名が車外に飛ばされて重軽傷を負った。機関士非常制動をかけたがブレーキが効かず、列車は重力によって自然停止した後に退行し始めた。このとき乗客は40人おり、うち1人が退行前に飛び降りて無事に軽井沢駅にたどり着いたが、退行開始後に飛び降りた日本鉄道副社長男爵毛利重輔とその息子の2人が列車に巻き込まれて死亡した。技術者だった毛利は碓氷峠の急勾配で退行し始めたということは制動不能になったと判断、その恐ろしさを知っていたため、ほかの乗客にも飛び降りることを勧めて飛び降りたという。列車は約1.9 km退行したが、機関士の必死の操作により停車に成功し、残った乗客は無事だった[11][12]。「毛利重輔#碓氷峠列車逆走事故」も参照
倉賀野駅 - 高崎駅間列車爆発事故
1907年(明治40年)5月6日 18時40分頃
高崎線倉賀野駅 - 高崎駅を走行中の512列車で、14両目の3等車の網棚に吊ってあった乗客の携帯品(危険物)が落下して爆発、車体の上部が吹き飛び4人が死亡、20人が負傷した。危険物の中身は不明。
大阪駅清水太右衛門殉職事故


清水太右衛門を描いた紙芝居「鉄路の華」ノースゲートビルディングと立体駐車場をつなぐ通路に移設された清水太右衛門殉職碑

1907年(明治40年)5月31日 18時頃(鉄道人身障害事故
大阪駅の駅員・清水太右衛門(岐阜県羽島郡小熊村出身)が同駅西第一踏切で踏切番として勤務中、遮断機をくぐり線路に入った幼女を発見。そのとき西成線の上下列車が同時に迫ってきた。太右衛門は踏切内に飛び込み間一髪で幼女を救ったが、列車と接触して重傷を負い、幼女を気遣いながらも22時間後に入院先で死亡した。死亡前には事故の目撃者の1人から10円もの寄付があり、大阪駅長が発起人となって義捐金を集め太右衛門に贈ろうとしていた[13]。この出来事に心をうたれた人々が太右衛門の功績を後世に伝えるため、1907年10月に現場付近(現・北区梅田三丁目)に「清水太右衛門殉職碑」が建立された。1945年大阪大空襲で破壊されたため、1956年に国鉄総裁十河信二揮毫で再建された[14]2007年に大阪駅の改装工事のため、阪神高速池田線梅田出入口付近に移設、これ以来JR社員によって数十年ぶりに命日に慰霊式が行われるようになった[15]2011年1月、ノースゲートビルディングと立体駐車場をつなぐ通路に移設された[16]。そこからも後に撤去されたが、正式な移設先は2020年現在決まっていない[17]。現場となった踏切は大阪駅高架化に伴い昭和初期に廃止された[注 2]1942年(昭和17年)に太右衛門の行為を描いた紙芝居が大阪鉄道局によって制作された。慰霊碑移設の新聞記事を見た作者の息子から2011年6月に紙芝居がJR西日本に寄贈された。『大阪駅物語』によって紙芝居が作られた事自体は知られていたが、所在は不明だった[18]


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