日本の熱い日々_謀殺・下山事件
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三鷹事件、国労の敗北

7月15日、中央線の三鷹駅で無人の列車が暴走する「三鷹事件」が発生。社会部の遠山部長(中谷一郎)は矢代に、下山はもはやニュースじゃないので三鷹へ取材に行け、と説得するが、矢代は東大の法医学教室に通い続けた。三鷹事件と下山事件は関連があると見られた。

三鷹事件では、共産党員2名が逮捕された。政府の吉田茂首相ら は、下山・三鷹両事件などが続発する情勢に対し、これらのいわゆる社会不安は共産党の運動方針に源を発していると扇動者として名指しし、反共政策を正面に出して治安対策に当たると声明した。世論も下山他殺説を支持し、国労 左派の犯行と噂した。これにより、ドッジ・ライン反対闘争を闘っていた国鉄労働組合らの勢力は左右に分断され、GHQと日本政府は国鉄に職員9万5000人を整理解雇させることに成功した。ドッジ・ライン反対の中心勢力である国労の敗北を契機として、大量首切りが政府の計画通り実施されていった。
血痕の発見

矢代記者は東大で、ある教授から特ダネを聞き込んだ。米軍もこの事件を捜査していて、GHQの犯罪科学研究室が事件現場で血痕を見つけたというのだ。血痕は轢断場所の手前にあったという。矢代は、夜間に血痕を発光させる「ルミノール反応」のことを聞かされ、夜に事件現場で大量の血痕を発見した。血痕の血液型は、下山と同じA型と判った。矢代から報告を受けた東京地検の伊庭次席検事(神山繁)らはこの血痕を重視し、矢代記者に正式な身分で捜査に加わってほしいと依頼する。捜査の一員になれば、記者の身分は拘束され、記事は書けなくなる。矢代は、現場から血痕が発見されたということを記事にした。夜、電車に乗ろうとホームで待つ矢代を、尾行してきた謎の男が突き落とした。幸い、電車は大きく飛んだ八代の隣の線路で止まった。

遠山部長はデスクにならないかと矢代に勧めるが、下山事件から離れることを意味するので矢代は「俺はこの事件と心中するつもりなんだ」と断った。矢代は、東大法医学教室の研究員として正式に下山事件の科学捜査に加わることになった。血痕の検査が進み、矢代が現場で発見した血痕は、下山総裁のものらしいという検査結果になった。他方で、奥野警視総監(平幹二朗)は、事件の2日前に下山総裁に会っており、官房長官から護衛をつけるように言われていたのだが、「労組側の情報が取りにくい」と、あえて護衛をつけなかったために事件が起こってしまったことを後悔していた。事件から1ヶ月が経過するので、総監は自殺説で幕を引こうと考えるが、東大との見解統一をどうするかで悩む。警視庁が自殺と発表するといったんは報道されるが、記者会見で捜査続行が告げられる。
松川事件

下山事件から6週間後、三鷹事件から約1ヶ月後の8月17日福島を走る東北本線松川駅北方のレールが故意にはずされて列車が転覆するという「松川事件」が発生し、下山事件・三鷹事件と並ぶ国鉄三大ミステリー事件となった。記者会見で内閣官房長官は、下山・三鷹の各種事件などと思想的底流においては同じものであると断定。捜査当局は、事件は労働組合や共産党ら左翼の犯行と決め付け、それらの多くの関係者が逮捕・起訴された。
ヌカ油の謎

下山総裁が着ていた衣服や靴には、ヌカ油色素などが付着していた。東大衛生裁判化学教室の秋田教授(近藤洋介)から裁判化学的に研究したいと申し出があり、警視庁捜査二課の若い大島刑事(山本圭)が担当することになった。その間にも逮捕者が出るが、そのほとんどが共産党員であった。

矢代は、大島刑事とともに聞き込み捜査を続けた。ヌカ油を扱う工場は都内に多数あった。あるとき立ち寄った国原鋼材という会社は、ピアノ線を製作していたが、そこの主任(信欣三)によると、これは米軍が山の中の戦闘で使用するものだという。このとき、謎の男が窓の外から矢代たちを覗いて監視していることに、矢代は気づいた。ふとあることで、大島と矢代は、ヌカ油と色素は同じ工場で付着したのではないかと思い至り、その工場の数は限られていることを突き止める。

いよいよ総動員態勢を決めた地検の伊庭次席検事らは、捜査の見通しが出てきたので喜び、前祝いを兼ねて忘年会をしようという。
捜査本部の解散

忘年会の席で、警視庁捜査二課の吉川課長の異動が告げられた。警視総監の意向だという。下山事件の捜査には痛手だ、警視庁はやる気があるのかと、伊庭や矢代は憤る。翌昭和25年3月、「下山事件特別捜査本部」は解散され、担当していた捜査官たちは都内の警察署に異動となった。その後も、捜査二課の5名で細々と捜査が続けられたが、まもなく打ち切られた。
糸賀

矢代は、下山邸に未亡人(岩崎加根子)を訪問する。未亡人によれば、事件の翌日に糸賀と名乗る自称・政治家(小沢栄太郎)が来訪し、「遺書があるでしょう、なかったら遺書を書きなさい」と自殺説を裏付ける遺書を書いて発表するように勧めた。このとき、彼女は下山が殺害されたと悟ったという。矢代が糸賀を訪ねて事情を訊くと、国の将来のためにそういう行動を取ったのだ、「あのままに放置しておいたら今頃は間違いなく革命が起きていただろう」と話す。糸賀は殺しのプロではないように見えるが、背後の勢力に操られているのだろうと、矢代は推測する。
李中漢、朝鮮戦争の勃発

下山事件から1ヶ月が経った昭和24年8月頃、事件の3日前に大韓民国代表部に李中漢(井川比佐志)という韓国人の情報屋が現れて、事件の予告を垂れ込んだ。李は米軍のCIC(米陸軍情報部隊)にも垂れ込んだが、虚偽の情報で扇動したとして、米軍が接収していた長崎県針尾収容所に収容されていた。昭和25年初夏、韓国代表部の書記官から知らされた矢代は収容所の李に面会して、事件の謎を聞き出そうとした。李が「嗄(しゃがれ)声の男」から得たという情報によれば、下山総裁殺害は某共産国により日本に社会不安を起こす目的で行われたとのことで、総裁は7月5日に数人の男により誘拐されて、脇の下の血を抜かれて殺害され、死体は午後11時頃に列車に轢かれたという。米軍憲兵(MP)の監視が厳しいために李の話せることには縛りがあり、また捜査で判ったこととは細部に食い違いがあったが、興味深い内容であり、検察も興味を示した。

遠山部長の情報によれば、李はその後に米軍のヘリコプターで本国に送還されたらしい。遠山は、李は真相を知りすぎたために海へ落とされて消されたのだと推測し、矢代に消される前に事件から手を引くべきだと説得を試みる。

昭和25年(1950年)6月、朝鮮戦争が勃発、昭和28年(1953年)まで続いた。日本は米軍の兵器廠となって、特需景気に沸き、戦後復興が進む。
アメリカ占領軍の影

松川事件の一審・二審では、多くの被告が有罪となり、死刑5名・無期懲役5名というかつてないほどの重刑の判決を受ける。

東京地検特捜部に報告書を持参した矢代は、伊庭次席検事に向かって、下山総裁自殺発表の中止命令がどこから出たか、また捜査本部解散の理由を訊いた。伊庭によれば、G2(米軍参謀本部第二部)からの圧力があったらしい。下山他殺捜査があんな結果になったのも、松川事件の重刑も米軍の圧力ですか、と詰め寄る矢代。

昭和26年(1951年)9月、吉田茂首相はサンフランシスコ講和条約および(旧)日米安全保障条約に調印し、ここに第二次世界大戦は終結し、日本は独立を回復した。

昭和27年(1952年)5月、血のメーデー事件で2名死亡。昭和28年(1953年)7月、板門店で朝鮮戦争の休戦協定調印。昭和29年(1954年)3月、マーシャル諸島の米水爆実験、いわゆる第五福竜丸事件で(日本では)1名死亡。日本の各地で、在日米軍基地に対する反対闘争が盛り上がりを見せていた。
堀内の垂れ込み

昭和32年(1957年)、昭和日報の矢代の元へ、堀内と名乗る男から手紙が届く。それによれば、北海道から上京して國原鋼材という会社に勤務した彼は、あの7月5日に駆り出されて、日本橋の三越で下山総裁の誘拐に関与させられたという。事後、憲兵(MP)に銃で脅され、台湾に連行されると聞かされた堀内は夜に脱走し、各地を隠れて転々と移りながら疲れ果て、麻薬患者となって、死ぬ間際に矢代に告白の手紙を書いたのだ。

國原鋼材を訪ねた矢代記者と大島刑事は、そこがかつてヌカ油の捜査で来た工場だったと気づく。ここは、かつて小さな町工場だったが、今は大工場になっていた。あのときの米軍が山中の戦闘で使うピアノ線は朝鮮戦争の戦争準備だったことに感づく。下山総裁を誘拐した4人の男がここで働いていたとすれば、単なる偶然ではないだろう。堀内の手がかりはなかったが、その会社には謎の男・唐沢(大滝秀治)が出入りしていた。大島によると、唐沢は米軍の工作員として戦後の日本で暗躍し、警察の取調べを受けるも、米軍によって釈放させられた謀略家であるらしい。

矢代と大島は、堀内の消息を求めて北海道を訪ね回るが、行方はまったく判らなかった。ある宿屋でくつろいでいると、見知らぬ男から仲居を通じて「お前たちもいつか抹殺される」という脅迫状が届く。何者が彼らを脅すのか、まったく不明。矢代は、糸賀、彼を駅で突き落とした男、國原鋼材で覗いていた男、唐沢らを思い浮かべる。

大島は下村がヌカ油か染料のある場所に監禁されていて、替玉が旅館に向かったと推理する。
丸山への追及とその後

昭和35年(1960年)、安保闘争で騒然とする日本。政府自民党は5月19日に警官隊を導入して、新安保条約を単独強行採決。6月4日夜、3波にわたるゼネスト。6月10日、ハガチー事件(アイゼンハワー米大統領訪日の打ち合わせで来日したジェイムズ・ハガティ大統領新聞係秘書が安保闘争のデモ隊に包囲され、羽田から米軍ヘリで脱出)。6月15日、警官隊とデモ隊が衝突して1名(樺美智子)が死亡。

社会部のデスクとなっていた矢代に、小野記者(橋本功)が、横田基地の近くで丸山という人夫を見かけたと報告する。その男は、下山事件の後に窃盗で拘置され、寝言で「下山総裁なんてそんな偉い人を殺してない」などと奇妙なことを口走った男だという。矢代と大島は、丸山(隆大介)を執拗に追及し始めた。丸山は、知らぬ存ぜぬを繰り返す。丸山の妻の西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき 」の歌が聞こえてくる。


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