日本の敗戦
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7月7日、これを伝え聞いた天皇は東郷に親書を持った特使を派遣してはどうかと述べた[7]。そこで東郷外相は近衛に特使を依頼し、7月12日、近衛は天皇から正式に特使に任命された。日本外務省は、モスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった[8]

しかしながら、既にソ連は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談において、ヨーロッパでの戦勝の日から3ヶ月以内に対日宣戦することで英米と合意しており、それとは矛盾する日本政府からのソ連中立の要請や、大東亜戦争の停戦講和の依頼など受けられるはずがなかった。5月から6月にかけて、ポルトガルスイスにある在外公館の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり[9]、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐から「シベリア鉄道におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていたが[10]、これらの決定的に重要な情報は全て、日本軍・外務省の間では、不都合過ぎて真剣に共有されなかったか、重要性に気付かれないまま捨て置かれていただけであった。

1945年7月、ソ連は、ベルリン郊外のソ連支配地域であるポツダムにおいてポツダム会談を主催し、イギリスアメリカ合衆国中華民国の首脳会談によるポツダム宣言に同意する。その際、ソ連への近衛文麿特使による和平工作について、米英と協議し、ソ連は対日宣戦布告まで大日本帝国政府の照会を放置することとした。

他方、帝国政府は、なおもソ連政府による和平仲介に期待し続けた。これを受けた東郷は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。内閣総理大臣鈴木貫太郎は記者会見で7月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」と述べ[注釈 1]本土決戦に備えた。

8月6日には広島への、8月9日午前11時には長崎への原爆投下があったが、日本の降伏を決定付けたのは、8月9日未明のソ連対日参戦であった。日ソ中立条約を結んでいたソ連からの突然の宣戦布告満洲国への侵攻により、大日本帝国には実質上「ポツダム宣言」の無条件受諾による降伏しか選択肢がなくなった[8]。(参照:無条件降伏
ポツダム宣言受諾から玉音放送まで(8月10日-15日)
8月10日
松花江で進軍を続けるソ連軍(8月10日)

10日午前0時3分[11]から行われた御前会議での議論では、外相の東郷茂徳、海相の米内光政、枢密院議長の平沼騏一郎が、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し陸相の阿南惟幾、陸軍参謀総長の梅津美治郎、海軍令部総長の豊田副武は「ポツダム宣言の受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。

しかし、唯一の同盟国であったドイツ政府は5月に無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国で日ソ中立条約を破って開戦したソ連も、先日の開戦により樺太や満州から日本本土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。ヤコフ・マリク駐日ソ連大使

ここで鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で日本のポツダム宣言受託が承認された[12]

日本国の首脳陣の中では、最終的に中立国であったソ連の参戦が最終的にポツダム宣言受諾を受託する理由となったが、実際に昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、当時の出席者や歴史学者の伊藤之雄は「(対日中立国の)ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[13]

日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。これ以降連合国からの回答を待つことになる。なおスウェーデンなど一部の中立国では、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、「日本が降伏した」と早とちりし、一部マスコミがこれを報じた場合があった[14]

なおソ連大使館側の要請により、10日午前11時から貴族院貴賓室にて外相東郷と駐日ソ連大使ヤコフ・マリクの会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻、つまり沖縄に次ぐ日本固有の領土内での、市民を巻き込んだ市街戦も開始された[15]

ポツダム宣言は日本政府により正式に受諾の意思があることが表明されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われていなかった。それは「ポツダム宣言受諾=降伏ではない」ことから、完全な停戦を行っていないのはイギリスやアメリカ、ソ連などの連合国も同様であった[16]。なお実際10日にはアメリカ軍により花巻空襲が行われ、家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。先頭から順に鈴木首相、米内海相、阿南陸相
8月11日

11日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかった。
8月12日

12日午前0時過ぎに連合国は、日本のポツダム宣言受託の承認を受けて、連合国を代表するものとしてアメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による日本のポツダム宣言受託への正式な返答、いわゆる「バーンズ回答」を行った[12]

その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」[17]としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」[18]というものであった。この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」[19]であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」[20]と記している。

しかし午前中に原文を受け取った参謀本部は、これを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、また「連合国全体ではなくアメリカ1国だけの回答」であることや、「アメリカ大統領ではなく国務長官からの回答」であったこともあり、鈴木首相も再照会について同調した[12]。東郷外相は「(連合国からの)正式な公電が到着していない」と回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった[21]

なお12日朝には皇族に対して、ポツダム宣言受諾承認を昭和天皇から直接伝えられている[22]。にもかかわらず、12日午後には軍令部総長の豊田は梅津陸軍参謀総長ともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する[23]。同日米内海軍大臣は豊田と大西の2人を呼び出した。米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と述べ、また大西には「最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」となどと激しく叱責し、豊田は硬直したかのような不動の姿勢で聞き、「申し訳ない」という様子で一言も答えなかった[24]
8月13日
小田原空襲後の市街地(8月14日)


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