日本の政治(にほんのせいじ)では、日本における政治制度について解説する。 戦後10年間は小党が分立する状態が続いたが、1955年(昭和30年)に日本社会党の右派と左派が統一し、日本民主党と自由党が合同(保守合同)して自由民主党が成立したことにより、55年体制が確立した。55年体制では自由民主党が常に与党となり、国会では自由民主党の総裁が内閣総理大臣に指名された。自由民主党の一部議員が離党して作った新自由クラブとの連立政権が組まれた時期(1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)まで)を除き、長らく自由民主党の単独内閣が続いた。 1993年(平成5年)に自由民主党が分裂し、宮沢内閣の不信任決議案が衆議院で可決され、宮沢内閣は衆議院解散を選択した。自由民主党の一部議員は離党して新党さきがけ、新生党を結成し、このあと行われた総選挙で、自由民主党は公示前の勢力をほぼ維持したものの過半数を割り込んだ。この選挙後に召集された特別国会で、日本新党の細川護煕が内閣総理大臣に指名され、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の連立により、細川内閣が組まれ、55年体制は崩壊した。この連立は次の羽田内閣でも維持されたものの、首相指名直後に日本社会党が連立離脱を表明したため、少数与党内閣となった。 1994年(平成6年)6月に羽田内閣は在任わずか64日で内閣総辞職を行い、国会は日本社会党の村山富市を内閣総理大臣に指名し、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの連立内閣(自社さ連立政権)が組まれた。この連立は次の第1次橋本内閣でも維持された(閣外協力は第2次橋本内閣の1998年(平成10年)6月まで)。 1999年(平成11年)1月、小渕内閣は自由民主党と自由党の連立内閣(小渕第1次改造内閣)となり、同年10月には公明党も加わった(小渕第2次改造内閣、自自公連立内閣)。翌2000年(平成12年)に自由党は分裂して、離党した一部議員が保守党(後に保守新党)を結成し、連立に残留した(第1次森内閣、自公保政権)。この連立は、次の小泉内閣でも維持されたが、2003年(平成15年)11月の第43回衆議院議員総選挙後に保守新党が自民党に吸収され、自民党・公明党の連立(自公連立政権)となり、2009年(平成21年)8月の第45回衆議院議員総選挙において、自民党、公明党が大敗し、野党になるまで続いた。
政治史・事情詳細は「日本の政治史」を参照
55年体制
細川非自民連立政権から自公連立政権までの経緯